『秘密の花園-春を待つ-』



 白い五枚の花弁が、風に震えている。
 
 ジャケットのポケットに手を突っ込んで、枝の先についた花を眺めていた。
 白い花の先には、薄水色の空。
 まだ春は始まったばかりで、風の冷たさに頬が冷えていく。

 今は、13時を少し過ぎたところ。
 ・・・そろそろか。

 腕時計を眺めながらあえて中庭を横切ると、目の端に大柄な影が映る。

「憲!!」
 暖かな声に振り返ると、弟の勝己が白衣をはためかせて駆け寄ってきた。
 その背後には、まだ学生とおぼしき青年が車椅子に乗ったままこちらを見ていた。
 ・・・一人ではなかったのか。
「・・・仕事中か?」
 内心、つまらないと思ったのを押し隠して顎で示す。
「ああ。まあ。でも丁度区切りが良いから今のうちに昼を食うかと思ってた所。ああ、そうだ、紹介するよ」
 振り向いて手招きをすると、彼がゆっくりと車輪を回して近寄り、言葉の聞こえる位置についた後、頭を下げた。
「初めまして。片桐、啓介といいます」
 浅黒い顔にしっかりした眉、僅かにすっと流すような吊り目がちの奧二重からは濃い茶色の瞳が覗く。少し笑っているように口角の上がった厚めの唇と、しっかり据わった鼻の形にどこか見覚えがあった。
「・・・初めまして?」
 首をかしげると、青年が苦笑する。
「一応、お会いするのは初めてです、真神憲二さん」
 頭に巻かれた包帯と、固定された足首。
 勝己の勤める病院の入院患者のようだが・・・。
「長田の・・・。長田有三さんの末の絢子さんの息子さんなんだよ、啓介君は」
「・・・あ」
 目を見開くと、啓介が破顔した。
「そっくりだろう?有三さんに」
 隣で勝己も笑っている。
「どうしてなのか、皆さん、祖父の名前を出すと同じ反応です。俺としては似ていると全く思えないんですけどね」
 長田有三。
 日本では小学生すら顔を思い浮かべられる大物政治家だ。
 そして、彼の末娘の絢子とは真神家は多少の関わりがあった。
 しかしおそらく、目の前の青年は両家の因縁を知らないに違いない。
「ここでは寒いから、近くのカフェに行こう」
 すっと勝己が啓介の背後に回り、車椅子を押し出す。
「すみません、ありがとうございます」
 申し訳なさそうに会釈し、彼は背もたれに身体を預けた。
 憲二は黙って二人の後に続く。
 どこかで、梅の香りがした。

「昼食まで付き合って頂いて、ほんとうにすみません」
 歩いて五分ほどの所にある教職員用に作られたカフェに入ると、中は閑散としていて、三人の話を聞かれる心配はなかった。
「いや、俺たちもだいたいこの時間に昼飯だから」
 啓介の隣に座った勝己はさりげなく細々とした世話をする。
 数年前から憲二が勤める大学の付属病院へ、偶然にも勝己が整形外科医として配属になった。
 この病院は憲二の仕事場である工学部の研究棟とは、歩いて10分もない距離にある。
 いつの頃からかこのカフェで一緒に昼食を摂ることが多くなった。
「そういえば、病院食があるんじゃないのか?」
 そもそも頭に包帯を巻いているような状態で、出歩いて良いものなのか。
 ふと、疑問を口にすると、二人は顔を見合わせ苦笑した。
「そうなんですけど・・・。ちょっと、居づらくて・・・」
 眉をひそめると、勝己が説明を始めた。
「啓介君は一週間前に交通事故にあって、最寄りの病院で処置した後にこちらの方に転送されてきたんだけど、その時に有三さんが心配のあまり駆けつけてしまって、大騒ぎになったんだよ」
「大騒ぎ?」
 ますますわけがわからない。
「最初は、ただの片桐啓介というどこにでもいる大学生が、うっかり豪雨のなか車にひき逃げされたって言う、どこにでもある話だったんですが、うちの祖父が出張ったものだから、御曹司扱いになりまして・・・。主に、看護婦に・・・」
「ああ、なるほど・・・」
 ようやく話が見えてきた。
「最初、俺は祖父の要求する特別扱いを断固拒否して一般病棟の相部屋に入らせて貰ったんですが・・・。その時から看護婦の出入りが半端じゃなくなって・・・」
 ピンと来て、口ごもる啓介の後を引き継ぐ。
「夜這い、かけられたな?」
「はい。それも一晩で複数・・・」
「まるで刺客だな」
「ええ、その通りです」
もはや、こうなると笑い話では済まなくなる。



「いつもならそういうのは上手くかわせる方なんですが、俺も事故の時に頭打ってるんでさすがに身体が辛くて、一晩で音を上げました」
「それはそうだろう」
 あわよくば、御曹司から甘い汁を吸おうというわけか。
「容態が悪化したらどう責任を取るつもりだったんだろうな、そいつらは」
 だから女は嫌いだと心の中で毒づくと、勝己が困った顔をした。
「いや、看護師みんながそうだと思わないでくれよ。後で調べたら、人事が出来心でつい入れてしまった好みの若い子たちがそういうことをやらかしていたみたいだから・・・」
 スタッフを悪く言いたくない彼らしい発言だ。
「うちはけっこう医療現場としてレベルが高い方で、その辺は厳しい筈らしいんだが・・・。春が近いせいか、こう、みんな疲れていて、魔が差したのか・・・」
「長田一族と言えば、政財界共にVIPだからな。そりゃ、食いつきたくもなるか」
 メニューを一瞥して三人分のランチの注文をしながら、憲二は問う。
「で、怒鳴り込んだのは長田有三氏?」
「いえ、祖母です。怒鳴り込むと言うより、冷ややかに・・・」
「想像つくな」
 長田有三の妻の富貴子は、夫をはるかにしのぐゴッドマザーだと囁かれている。
 彼女の一存で病院の人事全てが刷新されてもおかしくない。
「すぐに特別室へ移されて、接触するのはベテラン看護師、もしくは男性スタッフということになり、さらに秘書や警備が常時監視することになったのですが、これがまた肩が凝るというか何というか・・・。俺、本当にただの大学生ですから」
 深々とため息をつくその姿にいささか同情する。
「普通の大学生?長田の孫なのに?」
「はい。福岡から普通に受験して、アパート住まいでバイト三昧です。こちらの知人は誰も母方の家の事は知りません。俺は、長田の世話になるつもりはないんで」
「へえ・・・」
 憲二は驚きを隠せなかった。
 自分は真神の名前と資産を今も良いように使っている。
 おそらく他の家の御曹司達も似たり寄ったりだろう。
 名家に生まれたからには、その権利を享受するのは当たり前のことだ。
 しかし、啓介は悔しげに言葉を続ける。
「なのに、一年やそこらでこれかよって、自分でも情けなくなります。独立したつもりが結局、長田の保護なしでは何も出来ないんですから」
 気が付いたら、手を伸ばしていた。
 俯いて唇を噛みしめる啓介の、包帯を巻かれた額に触れる。
 指先に、じんわりと熱を感じた。
 はっとして目を上げた、まだどこか幼さの残る顔をのぞき込んだ時、憲二の頬に自然と笑いが広がった。
「それがどうした。あたりまえだろ」
 そのまま頬をゆっくりと指の背で撫でてやる。
「お前、いくつだ」
「・・・19歳です」
「19歳が何もかも完璧に出来てしまったら、この先の人生どうするよ?何もすることないぜ?」
「でも・・・、おれは・・・」
 青年は、焦れたような声で反論しようとした。
 頑固なのはやはり祖父譲りだなと内心ため息をつく。
「いいから、年長者の言葉を良く聞けよ。お前がそうしたいのはわかるが、完全を目指すな、余白を残しとけ」
「よはく・・・?」
「そうだ。全部を一つの色に塗り込めるのは辞めておけ。一生同じだなんて、つまらないだろ」
「・・・そういうものですか・・・?」
「ああ。俺も一時期似たようなことを考えて、ほぼ思う通りにしたことがある。そうすると、考えることが何もなくなった」
 斜め前から勝己の視線を感じたが、構わずそのまま続けた。
「毎日が退屈すぎて、正直、もうこれは死ぬ以外、何もない気がしたよ」
 退屈で退屈で、息が詰まりそうだったのはいつのことだったか。
 今、こうして話をするまですっかり忘れていた。
 生い立ちに反発しているわけではない。
 ただこの世界が窮屈なものに思えて、もがけばもがくほど苦しくなるのだろう。
 そんな時期が、自分にもあったと懐かしく思った。
「だけど、俺は生きている。・・・つまりは、そういうことだ」
 もう一度額を撫でると、啓介の瞳に何か違う色が灯ったような気がした。
 まるで、大人になりきっていない子犬のようだ。
 なぜか目の前の迷子をとても可愛いと感じた。
 ふいに、それまで黙っていた勝己が口を開く。
「・・・まあ、今回はとんだ災難だったけど、悪いことばかりじゃないな」
 いっせいに視線を向けると、一瞬、困ったような顔で笑った。
「今まで突っ走ってきたけれど、ここで一端休んで、色々考える機会が出来たって事だろう?」
 幸いながら頭部打撲は思いの外軽く、あとは肋骨と足の骨折の治療とリハビリにおよそ一ヶ月位かかるだろう。
 動けないなりに出来ることはある。
「・・・それも、そうですね・・・」
「・・・有三さんはともかく、富貴子さんから、片桐に固執せず、長田の良いところを上手く利用出来るようになれと言われたことはなかったか?」
「・・・あ」
 啓介が目を見開く。
 それまで、どこか鬱屈した空気をまとっていた彼の顔が一気に晴れていく。
「そう・・・、ですね・・・。そうでした。どうして忘れていたのかな、俺」
 ふわりと啓介が笑う。
 濃い瞳に、強い意志が宿る。
「ありがとうございます。おかげで、大切なことを思い出しました」
 だからこそ、長田夫妻が愛されずにいられないところなのだろう。
 憲二も同じ事を思ったのか、珍しく微笑んでいる。
 花が開くような、そんな笑み。
 勝己の視線に気が付いた啓介がその先を見てぽつりと言う。
「・・・やはり、姉弟ですね」
「ん?」
 片手で頬杖をつく憲二の頬には笑みが宿ったままだ。
「・・・憲二さんは、どこか清乃さんと似ています」
「・・・え?なんだよ、そんなこと今まで言われたことないぜ?」
 喉を鳴らして笑う憲二に啓介は真面目に首を振った。
「勝己さんもそうですが・・・。皆さん、どこかまとう空気が違って・・・。そういえば花を連想します」
 この世ならぬ花の精霊。
 以前、彼らの姉の清乃に会った時にそう思った。
 そして、今、憲二の微笑みにそれを感じる。
 清らかな水のような、空気のような、得難いもの。
 しかし、それをうまく説明することが出来ず、もどかしい。
 言葉を続けようとしたその時に、ウェイトレスが食事を運んできた。
「ああ、やっと昼食にありつける」
 目を輝かせてビーフシチューを覗き込む憲二に、勝己が苦笑する。
「・・・じゃあ、食べるとするか」
「はい」
 言葉を重ねたところで、きっとそれは形にならない。
「・・・いただきます」
 啓介は並べられた食事を前に、手を合わせた。





 唇に、熱を感じて覚醒する。
「ん・・・」
 薄く目を開けると、勝己の顔が間近にあった。
 仰向けに眠っていた自分の上に弟が覆い被さり、腕に抱き込まれている。
「大丈夫か?」
 心配げな眼差しに、自分は気を失っていたのだと知った。
「・・・かつ・・・み?」
 声が、かすれて思うように出ない。
 すると勝己は身体を少し離してベッドサイドに置かれたボトルを口に含み、再び顔を近づけてきた。
 薄く口を開いて彼の唇を待つ。
 流し込まれた水はひんやりと冷たく、喉を潤していった。
 ほう、と息をつくと、こめかみにキスをされる。
「ごめん・・・」
 額にゆっくりと勝己のそれがこつんと当たった。
 どうやら、反省しているらしい。
「・・・なにが?」
 彼の緑がかった瞳を見上げると、何度か瞬きした。
「抑制が効かなくて・・・」
「ああ・・・」
 なんだ、と言いかけて飲み込む。
「・・・どうかしたのか?なにかあった?」
 手を伸ばして男の硬い髪を撫でた。
 子供の頃、実家で飼っていた雑種犬の手触りを思い出す。

 あの犬も、自分なりに反省している時に限って、こんな風に寄り添っていたっけ。

 口元を緩ませると、ふいに手首を取られ、手の平にやんわり口付けられた。
「あんまり綺麗に笑うから・・・」
 手の平を彼の好きにさせながら続きを促す。
「ん?」
「怖くなった」
「怖い?何が」
 まだ熱が熾火のように全身に残っていて、脳が蕩けたままだ。
 うまく、勝己の言いたいことを察してあげられない。
 指先で軽く頬を撫でると、勝己が長いまつげで伏せられていた瞼を上げた。
 上目遣いに見つめられて、一瞬身体に何かが走った。
 気を失う直前に、勝己の瞳の緑色が増し、激しくきらめいていた。
 まるで、強い光に射貫かれたような心地を覚えた。
 彼の雄芯と瞳に身体を貫かれて、これ以上は無理だと許しを請いながら乱れ、あとは真っ白になった。
 普段はとても穏やかな勝己が、この部屋では時々別の顔を見せる。
 激情に焼き尽くされるその瞬間こそ、自分が一番欲しいものだと言うことに、なぜか彼は気づいていない。
「憲が、昼間に見せた顔・・・」
「昼間?」
 ようやく合点がいく。
「ああ・・・。なんだ・・・」
 そんなことで。
 吹き出すと、強く抱き込まれた。
 広い背中にゆっくりと手を回して、ぽんぽんと軽く叩いた。
「勝己。だって、啓介はお前が・・・」
「それでも、憲があんなに優しく笑うなんて・・・」
 駄々っ子のように必死でしがみつくさまが新鮮で、つい笑いが後から後からわき起こる。
 こんな一面があったなんて。
 笑えば笑うほど、腕の力が強くなった。
 骨がきしみそうなほど抱きしめられて、もっと、と望んでしまいそうになる。
 でも。
「勝己、痛い」
 文句を言うと、彼の瞳が見慣れた弟の色に戻った。
「あ、ごめん・・・」
 ぱっと腕を解かれ、熱が逃げて行ってしまった。
 名残惜しくて、勝己の肩を押して仰向けにし、その上へ腹ばいに乗る。
 そして顎をそらして、音を立てて唇を軽く吸った。
「お前も、啓介がもしかしたら身内だったかもしれないと思ったから、可愛がってるんだろ?」
 ちろりと舌を伸ばして、勝己の少し肉厚の唇を舐める。
「それは・・・そうだけど」
 啓介の母の絢子は、この真神家と浅からぬ縁を持っている。
 今頃兄嫁と呼んでいたかもしれない女性だ。
 そして、甥と呼んでいたかもしれない、啓介。
「・・・啓介がうちにいたなら今頃、真神も少しは違ったかもな。あんな光が、うちには必要だったんだよ」
 少年のようにひたむきで純粋なのに、闇の誘惑を知らないわけではない、瑞々しい光。
 絶妙なバランス感覚と相まって、どこかほっと寛がせてくれる、そんな存在。
「それに、清乃が前にさんざん言っていた紅茶王子って、啓介のことだろ?最初は本家のタラシの毒牙にかかったかと思っていたけど、昼間に話をして、ああこいつだったのかと妙に納得した」
 政治家の長田有三および国内最大手の長楽製薬に連なる『御曹司』は、外孫の啓介を含めて結構な数だ。
 中でも、富豪と言って良い本家筋の青年達はかなり自由奔放に暮し、少年期から浮き名を流している。
 とはいえ、それは彼らの魅力に吸い寄せられる女達にも責任があるが。
 彼らの派手な行状に比べて、九州を拠点に置く啓介は堅実で地味だ。
 そんなところが逆に好感を持てる。
 おそらく、清乃もそうだったのだろう。
 いつも夫の勇仁に伴われて東京へ出る度に疲弊して帰ってくる姉が、一度だけ明るい顔をしていたことがあった。
 それからは、果物で煮出した紅茶をときどき嬉しそうに春彦と飲んでいた。
 鬱々とした毎日を送る彼女にとって、それはとても希有なことだ。
「それがまたこうして俺たちが出会うなんて、いったいどんな縁なんだか・・・」
 言葉を、勝己の唇に遮られた。
「けん・・・。憲」
 容赦ない力で舌を吸われて、付け根がぴりりと痛む。
 ここにきて、本気で妬いているのだと悟った。
 啓介を語ることを勝己が嫌がっている。
「まったく・・・」
 何度も何度も唇を吸われながら、憲二は笑った。
「何も啓介が欲しいわけじゃない。あれがそばにいるのはいいかと思っただけだ」
「・・・それでも」
 顔を両手で抱え上げて更に深く口付けられて、次第に熱が上がっていく。
 唇で、舌で、吐息で、両手で。
 身体の全てを使って訴える。
「駄目だ、憲・・・」
 まるで愛を語っているようだ。
「そんなに簡単に、あいつに、心を動かさないでくれ」
 唇に、熱を刻まれる。
「なんでだよ・・・」
 深く深く、心の奥に入れるのは勝己だけなのに。
 お門違いの嫉妬が心地よい。
「なんででも・・・」
 合わさった互いの胸の突起が次第に固くなっていく。
 背中を反らして押しつけた。
「ん・・・」
 ゆるゆると身体を揺らして肌を擦り合わせているうちに下肢も熱くなっていく。
 息が、熱い。
「俺が、嫌だからだ・・・」
 炎が揺らめく。
「かつみ・・・」
 彼の大きな手が背中を滑り、双丘を何度も何度も撫で、やがてゆっくりと意志を持って奧を押し開いていく。
「憲・・・」
 期待に、鼓動が早まっていった。
 両足を大きく開き、頼もしい腰にまたがる。
 汗ばみ始めた男の身体が、自分を大胆にさせた。
 固くしなる竿の上をゆっくりと谷間に沿わせ、何度か行き来する。
 唇を、彼の耳に寄せて囁いた。
「・・・来い」
 勝己の瞳が、深い緑に染まる。


 お前だけ。
 お前さえいればいい。

 そんな言葉を、勝己の情熱と一緒に飲み込んだ。

 お前がイイ。


 雪のように白い花が、静かに開く。

 春を、待つ。




 -完-


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