『秘密の花園-冬の薔薇-』


 窓の外に目をやると、雪がちらついている。
 しかも、大粒のぼた雪がけっこうな速度で次々と地面に落ちていく。
 片手にコートを提げてエントランスに向かいかけた足を止め、すぐさまロッカーへとって返してマフラーと傘を掴み、再び急ぎ足で外に飛び出した。
 待ち合わせ場所を指定してきたのは彼女だが、変わりやすい天気の今日は屋内にすべきだった。
 コートに袖を通しながら大股で学内の庭園を目指す。
 少し遅れてしまった。
 白い息を吐きながら雑木林を駆け抜ける。
 まだ元旦から幾日も経っていないせいか、昼間にもかかわらず大学の敷地内は閑散としていて、大柄な自分がコートの前もとめずに走っていても驚く人はいない。

 ぽつぽつと花を咲かせているサザンカの生け垣を抜けると、濃い緑の傘を差した人影が見えた。
 じっと空を見上げて雪の降る様を眺めていたらしいその女性は、自分の大仰な足音に気が付いて振り向き、小首をかしげて笑った。

「またせて・・・。すまない」
 冷気が肺に入り、少し息が乱れてしまう。
 いや、夜勤続きで身体がなまっているのかもしれない。
 彼女の間近まで辿り着いたら、両膝に手を当てて、頭を垂れ肩で息をつく。
「・・・そんなに急がなくて良かったのに」
 傘を差し掛けて軽やかに笑う彼女は、背中に届く黒髪を淡いベージュのコートにふんわりと散らしていた。
「いつから入っていたの?」
 彼女が、髪を下ろしている姿を見るのはどのくらいぶりだろう。
 いつも艶やかな長い髪を器用に巻いて小さくまとめ、細い首を真っ直ぐに、白衣をはためかせるのが知り合って以来の彼女の常だった。
「三日の夜勤から・・・」
 だんだんと息が整ってきたので、背をゆっくりのばして持ってきた傘を広げ、改めて目の前の小さな顔を見つめた。
「あら、お疲れ様。そんなに走らせてごめんなさいね?」
 それに、眼差しが違う。
 声も、違う。
「・・・変わった」
 ぽそりと思うままの言葉を呟くと、一瞬目を見張り、ゆっくりと微笑む。
「・・・解る?」
「それは、もう」

 研修医として彼女の指導を仰いだ頃、柔らかな見た目と違い、自分にも他人にも厳しく、仕事が恐ろしくさばけていて若いながらも確固たる地位を築いていた。
 氷の女王、とも、あだ名されていたのに。

「今の可南子さんは、ボッティチェリのフローラみたいだ」
「・・・プリマヴェーラの?」
「ああ。中央向かって右の、歩き出しているほう」
 あの絵は、中心のヴィーナスよりもフローラの方が活き活きとしていて美しいと思う。
「それは、光栄ね・・・」
 ふふふ、と、肩をすくめ、くしゃりと頬を崩す。
 その薄く紅を載せた唇から、花が今にもこぼれ出しそうだ。

「・・・お別れに、来たの」
 雪の降り続く、さらさらとした音に囲まれた中、互いの白い息が立ち上る。
「・・・ああ、うん」
「驚かないのね?」
「いや、驚いているけど・・・」
 細い頤の下に現われた白くて細い首筋が気になり、手にしていたマフラーを彼女の首にゆっくり巻いた。
「これだけ変わっていたら、それしかないかなと」
「それもそうか」
 綺麗な水色の入ったマフラーに鼻を埋めて、くふ、と喉をならした。
 そういえば、このマフラーは彼女がヨーロッパでの学会出席の折に買ってきてくれた物だった。
「あのね。ここを辞めて、ニューヨークへ行くの」
「・・・え?」
「彼がどうしても一緒にいてくれと言うから」
「・・・ごめん。話がわからない。彼って誰のこと?」
「あ、ごめんなさい」
 時々、彼女は結論から話をする。
 父親の駐在について幼少期をヨーロッパで暮したせいか、会話の運びが日本人と違う。
 その癖だけは変わらないようだ。
「先月の半ばにバレエダンサーが搬送されてきたの、知ってる?」
「ああ、後で聞いたけど・・・。右膝前十字靭帯損傷・・・。確かアメリカのバレエカンパニーのダンサーが公演中に怪我をしたって・・・。まさか」
「そう。そのまさか」
「いや、ちょっとまって、可南子さん」
「ユーリ・サバノフ。ソリストなの。年は確か10歳近く下かしらね」
 まるで何度も諳んじてきたかのようにとうとうと語る。
「だけど、愛してますって言われたの。薄いピンクの薔薇を腕いっぱいに抱えて」
「・・・薔薇」
「そう、薔薇。彼から貰うとね、とてもとても嬉しかったの」
 昔、彼女が一番苦手だとこぼしていた花だ。
 
 綺麗だけど、痛むのが早くて、扱いも気を遣うから嫌いなの。
 花束でもらって、自分なりに丁寧に水切りして、花瓶に移したら次の日何輪の花がしゃんとしていてくれるかしらと思うと気が気じゃなくて。
 自分には花屋で並んでいるのを見るくらいが丁度良い。
 庭先で生きているのなら、もっと安心できるわ。

 そう語るから、自分は薔薇の花を贈ったことがない。

 そんなことも知らない青い眼の王子は、無防備に薔薇の花を抱えてプロポーズしたと言うことか。
「それは・・・。仕方ないな」
「そうなの。一発でやられたわ」
 恋に落ちた、と、幸せそうに笑う。
「私は10歳も年上だし、アジア人だし、本当はアメリカなんて嫌い。彼はちょっと顔が良くて情熱的なだけのただの若造だし、身体が勝負のバレエダンサー。しかも、すでにいくつかの故障を抱えてる。ハイリスク過ぎて笑いが止まらないのだけど。でも、行きたいと思ったの」
 薔薇の花びらが、蕾が、ぴんと伸びた葉の一つ一つが、愛を囁く。
 恋をしようと、誘うのだ。

 信じているのは自分。
 信じられるのは、自分の中の、愛。


「あなたのこと、好きだった」
 万感の思いを込めて、見上げる。
 日本人には珍しく、彫りが深くがっしりとした顔立ち。
 大柄な身体に長い手足、そして広い肩幅。
 とても男らしいのに、指先と眼差しはとても繊細で、いつも自分を含めた誰かを気遣っていた。
「とても、とても好きだった」
「うん」
「本当に、好きだったのよ?」
「ありがとう。俺も、好きだったよ」
 やんわりと緑がかった瞳を細めて、男が朗らかに笑う。
 ざわざわざと、雨音とはまったく違う不思議な音が傘布の上から聞こえた。
 彼が傘の親骨を軽く掴んで積もった雪をふるい落としてくれる。
 いつも、いつも、彼はこうなのだ。

 好きでなければ、年下の男で、それも部下に手を出すなんてありえなかった。
 これまで出会った中で一番上等な男だと、今でも思う。
 社会的地位も家柄も財産も申し分がなく、そして何よりも心の温かい人。
 でも。

「でも、もっと愛したいし、もっともっと愛されたいと、思ってしまったから・・・」
 私達の中にあるのは、愛ではなかった、と思う。
「・・・そうか」

 これから先、手を携えて進めそうな・・・戦友。

「ごめん」
「いやだ、あなたが謝らないで。立場がないじゃない」
「・・・・うん。でも、ごめん」

 気が付いたら二年以上の月日をともにしていたというのに。
 彼の中に、何か大きな物が溶け込んでいて、けっして一つになれなかった。
 いつからだろう。
 あの、美しい人には敵わないのだと感じたのは。
 彼の一番になりたかったわけではない。
 でも、なりたかったのかもしれない。
 今となっては、もう、どうでもいいこと。

「・・・幸せに」
 ゆっくりと空いている腕を広げて、すっぽりと抱きしめてくれた。
 こんなときでも、彼の腕は、優しい。
 額に、彼の冷たい頬が触れた。
「勝己、あなたも」
 背中にそっと手を回し、最後の時を味わう。

 広くて暖かな、胸。
 いつか、恋しくなることがあるかもしれない。
 だけど。
 私のものではないから。
 だから。
 私が、背中を押してあげる。
 迷わずに、好きなだけ、あの人を抱きしめなさい。

「幸せに・・・」

 私は、彼を愛するから。
 あなたは、あの人を、愛して。


 淡雪が、ふわりふわりと舞い降りる。





 -完-


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