『よる。』


 ざわざわとした空気を頬に感じ、ぼんやりと浮上する。
 誰かが階段を上がってきて、ドアを開く。するりと入ってきた湿った空気と、馴染んだ匂いに安心しまた眠りに戻ろうとすると、肩に大きな手がやんわりと触れた。
「よし・・・、吉央、起きて」
 いつもよりどこか沈んだ声。
 薄く瞼を持ち上げると、将が枕元に座って顔を寄せてきた。
「今、良子さんから電話があった。ばばあ・・・。ばあさんが、息をしていないって」
「・・・え」
 突然の覚醒。
「親父とおふくろがさっき行って確認した。とにかく内科の斎川先生と連絡取れたから、診断は大丈夫。警察を呼ぶまではならない」
 将の言葉がよどみなく流れるが、何を言っているのか全く理解できなかった。
 確認、内科、診断、警察…?
 息をしていない。
 お祖母さんが。
「・・・まって。ちょっと待って、将。意味が解らない。息をしていないって、どういうこと」
 体を起こすことは出来たと思うけれど、それから先、何をすればいいんだろう。
「眠っている間に死んだらしい。苦しんだ感じは全くなくて、ただもう身体が冷たいって」
「しんだ」
 死んだって、あのひとが本当に?
「何かの間違いじゃ・・・」
「吉央」
 言葉の続きを、強い力に塞がれた。
 額にあたる、広くて硬い胸。
 背中にじんわりと交差した熱を感じて、ああ、将だと思った。
「ばあさんは死んだ。もう、何も言わない。それだけだ」
 耳元に感じる、息づかい。
 将の声が、遠い。

 昨日の夜はけっこうな雨だった。
 梅雨の終わりにやってくる、亜熱帯のスコールを思わせる雨。地面に叩きつけるように響く水音はまるで、すべての物をねじ伏せるように力がみなぎり、そんな荒天が命の灯火を消したのかもしれない。
 全ては推測でしかないが、雨音と時折きらめく雷光のなか、祖母はあの世へと渡った。
「うーん。低気圧に連れていかれたとしか、言いようがないな」
 かかりつけ医の斎川氏は、枕元に正座したままぽつりと言う。丁寧に診察したのち、大人たちで身体と寝具を整えた。
 祖母の葉子の寝室の中には、母の良子、又従兄の将、将の両親であるひばりと直樹。そして直系の孫にあたる自分をあわせた親族五人で死亡確認に立ち会った。
「死因は心臓突然死。前々からずっと注意していたのに葉子さんは普段からあまり水分を採りたがらなかったから、血流が悪さしたね」
 二週間おきに斎川氏の元へ訪れていた祖母の、次の検診は明後日の予定だった。診断に見落としがあったとは到底思えない。
「眠っている間にすーっと意識が遠のいて、心臓も止まったって感じだと思う。この手の突然死はだいたいそう」
「あの・・・。まったく・・・。全く、苦しまずに済んだってことですか?」
 か細い声で母が尋ねる。
 初心者向けに茶道と書道を教えてるこの本間家に嫁いできて、二十数年。ただっ広い家で今は、この祖母と二人きりで暮らしていた。
 姉の奈津美は東京の大学へ進学し就職してからはめったに戻らず、吉央も数年前から形ばかりの塀を隔てた地続きの大野家で寝起きさせてもらっている。
「表情と、身体の状態からそんな感じだね。今もまるで眠っているようでしょう?」
 いつでも物腰の柔らかい医師は母を気遣い、ゆっくりと語った。
「そう・・・なんですか・・・」
 発見してすぐにひばりへ連絡したが気力を失ってしまったようで、母はどこかぼんやりと姑の枕元に座り込んだままだ。
「ある意味、大往生じゃないの?」
 見守っていたひばりが息をついた。
「伯母さん、痛いのとか苦しいの嫌いじゃない。望んだとおりの最期でしょう?」
「ひばりさん・・・」
 姪にあたる彼女は高齢で様々な不調を訴える祖母の世話をよく買ってでていた。
「ねえ、良子さん。まずは葬儀屋を手配しないとね。何か聞いてる?」
「あ・・・。たしか桜花社だったと思う。生前契約したはず」
「いや、ひばりちゃん。まずは国男さんだろう。彼は今どこに?」
 近所で育った斎川医師は、つい幼馴染の口調に戻って待ったをかけた。
「それがね。福岡に出張中のはずだけど誰が電話しても出ないのよ」
「は?」
 亡くなった本間葉子の子は、本間国男ただ一人。数日前に出張と告げたきり、連絡の一つもないままだ。
「いつものことよ。折り返しの電話ももったいぶって、多分早くて午後か夕方か・・・」
 彼は家族からの連絡をわざと無視する。
「いや、喪主は国男さんだから早く捕まえないと。僕がかけてみるか。登録していない番号なら仕事と勘違いして出るかもしれない」
 言うなり電話をかけた。するとすぐ回線がつながり、低い声がぼそぼそと聞こえてきた。
「おはようございます。私は斎川総合病院の医師で斎川と申します。こちらの番号は本間国男さんで間違いないですか?」
 そして彼は音声をオープンに切り替えた。
『本間国男は私ですが・・・』
 医師と聞いてさすがに応じたが、声色に不信感がにじみ出ている。
「実はお母さまの本間葉子さんがお目覚めにならないとの知らせを受けて、ご自宅に伺った次第です」
『・・・はい?』
「先ほど診察しましたが、残念ながらもうすでに死亡しておられました」
『なに…っ』
『きゃっ・・・!』
 国男の驚きの声と同時に何か大きな物音がし、近くで女性らしき高い声が聞こえてきた。
「・・・なるほど、相変わらずね」
 ひばりは、低く唸った。
『なんだ、どういうことだ!』
 怒鳴り声に怯まず、斎川は説明を続ける。
「葉子さんは眠った状態のまま今朝の四時くらいに心肺停止したようです。発見されたのは三時間後。一切苦しんだ様子はなく、外傷ももちろんなく、事件性もありません」
『・・・おい、いきなり電話してきて、それを信用しろと?』
「もし私の診断が不服でしたら、今すぐ警察を呼んで検死に回すことも可能です。呼びますか?俺は別に構わないけど、国男」
 ここに来て、斎川は態度をがらりと変えた。
「そんなことよりあんた、今どこにいるんだ?この大事な時にのうのうと朝寝かよ」
『・・・さいかわ?斎川って、お前恭輔か!』
 将と吉央が目を丸くしてひばりを見ると、『同級生』と彼女は小声で答えた。
「今頃気付いたか。俺が葉子さんを診るようになってかなり経つってのにね。それより葬儀屋なり警察なりに連絡するにしても、あんたが不在じゃ話にならない」
 荒っぽい言葉遣いは、いつも彼とかけ離れたものだった。
『・・・お前に関係ない』
「そりゃそうだ。俺は他人だからな。単なるご近所さんで、一介の内科医だ」
『なら、すっこんで・・・』
「葉子さんの死亡確認は本日朝七時五十六分」
 斎川は国男の言葉を遮った。
「遺体の保全と焼き場の予約と葬儀の日程と周囲への連絡と手続きはどうするか。決めるべきことはたくさんある。冷静になったら自宅の電話にかけてくるように。ただし長くは待てない。一時間以内に連絡なければこちらで勝手に執り行うことになると思え」
 言い終えるなり、回線を閉じた。
「あ・・・。結局、どこにいるか聞きそびれてしまったな」
 宙を見つめて、ぽつりとつぶやく。
「すみません、途中からなんだか頭に血が上って」
 あっけに取られている吉央たちに気付き、斎川は恥ずかしそうに謝罪した。
「あー、いいよ。私だったらもっとすごいことになっただろうから。うちのゴタゴタに巻き込んでごめんねえ」
 ひばりが首をすくめて苦笑する。
「なんだか急に腹が立って、がーっと言ってしまいました。本当に面目ない」
「連絡が付いただけましでしょ。アレに多くを望んではいけないってことは、みんな骨身に染みてるから」
 吉央の隣で腕組みをして傍観していた将が「ばあさん以外はな」と小さく呟いた。
 傍から見ると祖母の愛は一方通行で、国男には都合の良い時だけ利用されていた。そもそも恭輔医師が担当になって十年経つのに知らなかったとは、さすがの将も驚いた。
「待っても無駄だ、おふくろ。もうさっさと葬儀屋に電話してしまえ。気温が高いのにばあさんを放置するのはまずいだろう」
 昨夜の雨の名残と初夏の熱がじっとりとあたりを覆いつくし始めている。
「そうだよねえ。でも、アレが後でごねるんじゃない」
「いえ、将君の言う通りだと思います。もう話を進めましょう」
 きっぱりと良子は断じ、頭を下げた。
「いつも、こちらのことで迷惑をかけてすみません」
「いやいやなんの。まあ、母が亡くなった時にはうちらも伯母さんの世話になったしね」
 葉子が国男を産んで間もなく夫が病死し、続いて妹も夫の事故死でひばりを始めとした子ども三人を抱えて戻り、本間家の敷地内に離れを建てて暮らし始めた。以来、互いに協力しあうというのが両家の日常だった。
「朗報だよ。奈津美ちゃんがすぐに向かうらしいよ。それとつぐみは通夜にぎりぎり間に合うかなって」
 ひばりの夫の大野直樹が、携帯電話を片手に顔を出す。鴨居に額をぶつけないようひょろりとした背中を軽く丸め、のんびりとした口調で話す彼に、空気が和む。
「そういやあの子は今、どこにいるの?」
「太秦。昼には終わる予定だそうだよ」
 長女のつぐみは役者の卵で、劇団に所属し小さな仕事を精力的にこなしている。
「じゃあ、僕は帰ります。書類ができたら知らせるけど、誰かとりに来てくれるかな?」
 斎川は荷物をまとめ始めた。
「あ。俺行きます」
 将が手を上げると、彼は軽くうなずいた。
「うん。頼むね。あ、そうそう吉央くん?」
「は、はい・・・」
 ぼんやりしていた吉央ははっと目を瞬く。
「お通夜と葬儀のもろもろで、明日の夜までいろんな人と会うことになると思うけどね」
「・・・はい」
「体調が悪いと感じたら、すぐにその場を離れること」
「え・・・。でも・・・」
「僕の予想では葉子さんは顔が広いから、弔問客はかなりの数になると思う。葬儀ってけっこうざわざわしているから、抜け出しても大丈夫。具合が悪いふりをすればいい」
 なんならマスクでもしておくといいよ、と身振りをして見せた後小さく首をかしげた。
「無理は禁物。わかった?」
 彼からもらった言葉に自分はたくさん救われた。そして、それは今も。
「・・・はい」
 吉央が小さく頷くと、繊細な指先で軽く頭を撫でられた。
「うん。約束だからね」
 ふわりと優しい笑みを口元に残して斎川が葉子の元を離れ、つられて一同も従った。 母と話しながら去っていく斎川の後姿を、吉央はじっと見つめる。
「吉央」
 背後からひそりと呼ばれた。
「うん」
 振り向かなくても、わかる。
「俺がいる」
 背中にあたる体温。
 ゆっくり包み込まれて、強張ってた何かが溶けて目を閉じた。
「・・・うん。そうだね」
 将が、いてくれる。

 二人が台所へ行くと、大騒ぎになっていた。
「葬式なんて久しぶり~。喪服、入るかなあ。あと、将たちどうしよう?」
「学生服で大丈夫でしょう」
「あ、そうか」
 テーブルの上には、葬儀社の書類、通帳、そして冠婚葬祭の本が広げられていて、母親たちはそれをめくりながら協議中で、父も電話をかけて交渉中だった。
「良子さん、どのくらいの席数にする?」
「そうねえ・・・」
「ひばりちゃん、葬儀屋さんがね、会場は空いているし、焼き場も任せてくださいって。で、一時間後くらいに来るって」
「ありがとう、さすがは私の旦那さん」
 ひばりの賛辞に直樹は照れくさそうに笑う。
「いけない、朝ごはん。みんな食べ損なっちゃって、どうしましょう」
 将たちに気付いた母が慌てて立ち上がり、冷蔵庫に飛びつく。
「そういや私ら素っぴんだよ、良子さん!」
「あら。斎川先生にひどい顔を見せてしまったわ」
 女たちの悲鳴に直樹がフォローする。
「大丈夫。二人とも化粧なんかしなくても十分素敵だよ」
「あら、ごちそうさま」
「もう直樹君たら、やめてよ~。良子さんも将たちもいるのにー」
 どっと、三人が笑った。
「ある意味、シュールだな・・・。いや、こういうもんなのか・・・」
 西の、最奥の部屋には祖母の遺体。
 だけど、朝日のあたる東側の、この台所では笑いにあふれていて。
「うん・・・。でも俺はこっちのほうがいい」
 祖母のことを憎み亡くなったことを喜んでいるわけではない。長い年月を共にしたのだから、悼む気持ちはある。だけど、現実として送り出すためにやらねばならないことが山積みで、それを一つ一つ片付けねばならない。
 空元気じゃなくて。
 全力で物事に立ち向かい、そんなさなかに笑いあえる大人たちの強さに、吉央はほっと息をついた。
「大人って、すごいね・・・」
「ああ・・・。そうだな」

 結局、国男からの連絡はないまま葬儀会社の職員たちを迎えた。
「自宅ではなく、葬儀場での安置でよろしいですね?」
「はい」
「わかりました。では、こちらでお預かりします」
 二人の職員がてきぱきと祖母をストレッチャーに乗せ、大きな車はあっという間に去っていく。
 台所を片付ける将と吉央は、居間から漏れ聞こえる会話に耳をそばだてた。
 残った職員は契約内容と日程の説明をして、まずは直樹に寺へ連絡を取らせる。そして、通夜、葬儀、告別式、出棺、火葬、初七日などあっという間に予定をくみ上げていく。だが話し合ううちに、『個人様への想い次第ですね』の一言で三人は次々とオプションを承諾してしまった。気付くと結構な金額になったらしく、最後に契約のサインをする直樹の手はかすかに震えていた。
 そして颯爽と去っていく葬儀屋を見送った大人たちは、ソファーに崩れ落ちた。
「・・・将、お茶。いや、コーヒーがいいわ」
 将が頷き、やかんをコンロにかけた。
「納棺師ってあれでしょ。映画に出てた」
「そうねえ」
「二人呼んでじゅうごまんかあ。いや元値は十八万?気が付いたら了承していたよねえ」
「そうだねえ。まあ仕方ないよ」
 ひばりの言葉に、母と直樹が気のない相槌を交互に返す。
「なんか、あれよあれよという間に持っていかれたよね。いやあ、すっかりやられたわあ」
 ごとっと音がして吉央が振り返ると、将が床にしゃがみ込んで肩を震わせていた。
「将・・・だいじょう・・・」
 慌てて駆け寄ると、なんと将は声を殺して笑っていた。
「たすく?」
「いや。おふくろにあそこまで言わせるとは、ほんと・・・」
「うん?」
「世の中って、まだまだ色々な事があるんだな」
「・・・うん」
 この狭い家の中で、たった数時間の間に色々あって。
 だけど、世界は広がる。

 ようやく人心地ついたころ、玄関のドアが開く音がした。
「遅くなってごめんなさい。あ、良い匂い」
 姉の奈津美が大きな荷物を抱えて居間に入ってくる。艶々とした栗色の髪と大きな瞳の奈津美は華やかで声も明るい。一瞬にして部屋の中が爽やかになった。
「この度はみなさまお疲れ様です。朝からずっと大変だったでしょう」
「そうなのよ~。なっちゃん早くに来てくれて助かったわ」
 ひばりは大きな両腕で奈津美を囲い込み、ぎゅっと抱きしめた。
「ところでお昼買ってきたの。お寿司はどうかしら。食べられる?」
 大きな手提げ袋から次々と紙包みをとりだしてテーブルに並べた。
「助六とかバッテラとか穴子巻きとか。お寿司の方が食欲そそるかなと思って」
 そこへ席を外していた母が戻り、嬉しそうな声を上げた。
「まあ、なっちゃん」
「お母さん、ただいま」
 母の手を、奈津美はぎゅっと両手で握った。
「お母さん大変だったね。疲れたでしょう」
「大丈夫よ、ありがとう」
 母と奈津美は、血がつながっていない。奈津美は先妻の子、母は後妻で吉央を産んだ。
 奈津美の母親は祖母と仲が悪く、三歳の娘を置いて離婚した。やがて祖母は茶会で良子のおとなしさを気に入り後妻にと望んだ。父はあっさり再婚を承諾し、その後全てを新妻に丸投げにしてやりたい放題になった。
 今朝もそんな誰かと過ごしていたのだろう。このまま葬式も放り出してくれれば会わずに済むのにと、吉央は願う気持ちになった。
 おそらく奈津美も同じことを考えている。
「良子さん、なっちゃんが買ってきたお寿司おいしそうだよ、食べよう」
 ひばりのうきうきした声が響き渡る。
「そうですね。なら、お吸い物を」
 つい立ち働こうとする母を姉が呼び止めた。
「もう、お母さんは座ってて。あとは私がやるわ。明日の精進落としまで大変なんだから、今くらいは楽してちょうだい」
「・・・ありがとう。なら、甘えさせてもらうわね」
「うん、まかせて」
 奈津美が慣れた様子で台所に立つ。料理上手で手際も良いのを厳しく躾けた成果だと祖母は自慢していたが、姉の料理はみかけだけ祖母直伝で味は母そのものだと吉央は思う。
「で、その湯灌・・・だっけ。納棺師さんたちは何時に斎場に来られるの?」
 穴子の巻きずしをほおばり、咀嚼しながらつかの間うっとりと目を閉じた後、奈津美は現実に戻った。
「二時くらい。あれは誰か立ち会うべきかな」
 向かいで鯖と酢飯の絶妙な組み合わせにいたく感動していたひばりが答える。
「じゃあ、私が行くわ。お通夜は六時よね。納棺が終わったら少し時間があると思う。あとは何が残ってる?」
「そうねえ・・・。あ、将。玄関に置いてるパンプス、急いで修理屋に出してきて」
「・・・はあ?」
 豆腐とわかめの吸い物に口をつけていた将は、不満げな声を上げた。
「喪服はなんとか入ったんだけどね。フォーマル用の靴なんて滅多に履かないもんだから、かかとが死んでた」
「・・・おふくろ、また太っただろ」
 息子の容赦ない指摘は、当然のことながらひばりの逆鱗に触れた。
「なんですって・・・」
 ひばりの豊かな胸が、ゆっくりと威嚇するかのように膨らむ。堂々とした体躯の二人の間に挟まれた直樹は、妻と息子に比べるとはるかに薄い身体をそっと縮こまらせた。
「失礼ね!ヒールってプラスチックだから、時間が経つと劣化して割れるものなの!」
「まあ、そういうことにしてもいいけど」
 直樹越しに母と息子のバトルが勃発する。 大野家ではよくある光景だ。なので、自分たちはそれをいつも興味深く鑑賞する。この家族に生まれたなら毎日がどんなに楽しかっただろうと、心の奥で羨ましく思いながら。
「あんた・・・。年々偉そうになってくるのはなんで?三歳まではすんごく可愛かったのに」
 ひばりが三歳の時の将の写真をいつも手帳に入れて愛でているのは、全員知っている。
「三年間、俺の可愛さを堪能すれば十分だろ」
 二人は箸を休めることなく、次々と寿司を平らげつつ戦う。
「ああ、なんて憎たらしい!とにかく、修理してくれなきゃ困るのよ。お・ね・が・い」
 恨めし気な母親の声に将は矛を収めた。
「了解」
 それまで黙って観戦していた奈津美は、すまし顔でいなりを口に放り込む将をしげしげと眺め、感慨深げにつぶやいた。
「・・・たっちゃん、すんごくうまくなったね。口八丁」
 ぶはっと、全員吹き出した。

 斎川の指摘通り通夜の弔問客は予想よりもはるかに多く、祖母の人脈の凄さを思い知る。男三人で受付に立ったが目が回りそうだった。しかしそこへつぐみが加わり楽になった。大人びた顔立ちの彼女は人慣れしていて、すぐ場に溶け込み奈津美と連携し機敏に働いた。
「吉央、将」
 混雑ぶりは変わらないが、受付はひと段落した。直樹はあたりをさっと見渡す。
「ちょっとお前たち、休憩しておいで。もうここは僕一人で大丈夫だから」
「そうだね。じゃあ、そうさせてもらう」
 軽く将がうなずいて、吉央の手をひく。
「え、ちょっ、おじさん、将・・・」
 連れていかれたのは上階で、静まり返っている。今日は他に葬儀がなく、自由に使って良いと聞いていた。将はオレンジジュースを自販機で買い吉央に差し出す。
「吉央」
「・・・なに?」
「ばあさんの法要、お前どうしても出たいか?」
「え?」
「俺は出なくてもいいと思ってる。あいつがいるのは嫌だろ。なっちゃんは端っこに座るらしいけど、お前、それも無理じゃないか?」
 喪主側に孫がいないのは異様だろう。それでも国男の近くにはいられないのだ。あの奈津美ですら。
「・・・姉ちゃん、出るんだ」
「一応な。でも、それがせいいっぱいって言ってた」
「・・・なら・・・」
 両の手の中でペットボトルを転がしながら言葉を探した。
「俺も出る。これでも一応、血はつながっているから」
「・・・なっちゃんと同じこと言うんだな」
「・・・そうなんだ」
 将は奈津美ととても仲が良い。
 もしかしたら、姉のつぐみより親しいかもしれない。奈津美の前の将は素直で、時々まるでちいさな弟みたいになることがある。
 それに比べて自分は、奈津美とは、一時期微妙な関係だった。
 いや違う。
 生まれた時からいびつな関係で、それが今も尾を引いている。
「ちがう・・・」
 吉央は小さく頭を振った。
 自分が、奈津美と向き合えないだけ。
 意気地なしだ。
 俯いて、足元を見る。
 母が手入れを欠かさないおかげでいつもきれいな、黒いローファーのつま先。
「どうして・・・」
 どうして自分はこうなんだろう。
「・・・吉央?」
「あの・・・あのさ」
 自分には、今は、これがせいいっぱいで。
「そばに・・・いてくれる?」
 どうしても言葉が出てこない。
「ああ」
 将がうなずく。
「ずっと、そばにいるよ」
 手の中のペットボトルの温度を、ようやく感じた。

 通夜式はあっさり終った。弔問客が多過ぎたおかげで席が足りず、それを理由に斎川と三人で末席に座り、焼香は彼らが挟み込むように祭壇まで付き添ってくれた。
 予想通り、法要の始まる直前に到着した国男が喪主席に子供たちがいないことに腹を立てて連れ戻そうとしたが、親戚たちに押し止められ、不承不承座り直した。
 父が射るような目で自分を睨んだのを見た時は、本当に恐ろしくて震えた。
 だが斎川から背中を優しくさすられた。
「大丈夫。大丈夫だよ。彼には何もできない」
 呪縛が解け、呼吸の仕方を思い出した。
 いつもいつも、みんなで自分を守ってくれた。
 母も、ひばりも、直樹も、つぐみも、将も、斎川も、そして奈津美も。
「・・・ありがとうございます」
 やっと、言えた。

 通夜ふるまいはずいぶん賑やかなものになった。用意した料理が全く足りず、奈津美が追加の手配に奔走し、吉央も配膳を手伝った。
 もちろん座敷の中心には国男がいる。
 だが人目もあるため、彼が子どもたちに構うことは一切なかった。おかげで吉央も国男の声を耳で拾ったとしても、平常心を保つことができた。
「よっちゃん。たっちゃんと一緒に抜けていいよ。上階の和室で着替えて休んでて」
 奈津美から促されて慌てた。
「でもお客さん、まだたくさんいるよね?」
「女手がたくさんあるから大丈夫。叔父さんたちもうまーくお酌してくれてるし」
 仕出し弁当を差し出して、にっと笑う。
「後でここから抜け出そう?四人でね」
 奈津美が言わんとすることに、吉央は直感的に理解した。
「え・・・?そんなことしたら駄目なんじゃない?お通夜って・・・」
「お父さんと叔父さんたちがおばあちゃんの傍にいるよ。なら私たちはいなくても寂しくないでしょう」
「それは・・・そうかも」
「ね、決まり。いっぺんに抜けると目立つから、先に上がってちょうだい」
 なんと母たちは了承済みでさらに将も乗り気だとまで言われると、もう奈津美についていくしかない。
「・・・どこいくの?」
「んー。つんちゃんが考え中」
「なるほど」
「久々のミステリーツアーだよ。お楽しみに」と悪そうな笑みを見せられて、そうだった姉たちはそういう性格だったと思い出す。
「じゃあ、またね」
 言うなり、奈津美は軽やかな足取りで座敷へと戻って行った。

「よっちゃん、起きて」
 囁きに、はっと目を覚ます。
 見慣れない壁に一瞬自分がどこにいるか解らず焦ったが、奈津美の顔を見て葬儀会場の控室の一つだと思い出した。
「いま、何時・・・」
 すぐそばで胡坐をかいていた将が腕を差し出してきたので掴んで時計を覗きこむと、真夜中になっている。将と食事して、布団に寝っ転がってテレビを見ているうちに吉央だけぐっすり眠ってしまったようだ。
「待たせてごめんね。お父さんがなかなか潰れてくれなくて」
「なんで・・・。酔い潰す必要が?」
「中途半端に酔ったらまた何をしですか解らないし。潰しといたほうが安心でしょ」
 奈津美はさらっと恐ろしいことを言う。
「じゃ、いこうか。ちょっと遠いからトイレに行っといてね」
 着替えて身軽な格好になった奈津美は、車のキーを片手に元気に立ち上がる。
「それでどこへ?」
 将が尋ねると、にやりと奈津美が笑った。
「海へ行こうぜ、弟たちよ」
「海って、どこの」
「んーと、ずっと前にみんなで海水浴行ったでしょ。あそこ」
 そこは記憶違いでなければ市外で、深夜でなおかつ有料道路を使っても一時間くらいはかかるだろう。
「・・・まじか、なっちゃん」
「マジです。つんちゃん待ちきれなくて、もう外に出ちゃったよ」
 姉たちの底なしの元気ぶりに、さすがの将も肩を落とす。
「そうだった。姉ちゃんたち、そんなんだった・・・」
 数時間前に、自分も同じことを考えた。吉央はたまらず吹き出して笑ってしまう。すると、将が軽く肩を小突いてきた。どこか、面白くなさそうな顔。
「なんだよ」
「・・・なにも」
 そんな弟たちの腕を、奈津美が勢いよく引っ張り上げる。
「じゃあ、いきますか」
「・・・なっちゃんって、意外と力持ちだよね」
 今度は将が奈津美に小突かれた。
 
「着くまで、みんな寝てていいよ」
 奈津美が言うと、将は後部座席で素直に寝てしまった。その隣ではつぐみが寄りかかってぐっすり眠っている。
「こうして並んで寝ていると、二人ってやっぱり似ているよね」
「うん・・・」
 容姿で言えば将はひばりに似て、つぐみは直樹に似ていた。でも、性格は逆のような気もする。豪快なつぐみと、黙って要所要所をしっかりつかむ将。二人とも普段はずいぶん大人びているけれど、無防備に眠っている姿は幼い頃を思い出させる。
「つんちゃんね。私の代わりにお客さんたちと飲んで頑張ったのよ」
「うん。多分そうかなと思った」
「ありがたいよね。叔父さんたちもほんとは父さんのことよく思っていないのに、今日は態度に出さずにいてくれて」
 ひばりたちと国男も、今の自分たちのように一緒に育った。しかし国男は従弟たちに辛く当たりいじめたと聞く。それでも故人への礼を尽くすため、葬儀に駆けつけてくれた。
「俺は何もできなかったな・・・」
「よっちゃんもたくさん働いてくれていたよ。おかげでとても助かった。それに、こうして一緒にでかけられるくらい元気になってくれたじゃない。私はそれがとても嬉しい」
「・・・」
 海へ向かう真夜中の国道は、行き交う車も少なくて。たまに向かいからやってきた車のヘッドライトの強さに驚く。
「ねえ、よっちゃん」
「なに」
「ごめんね。・・・あの夜」
 あの夜。
 もうすぐ七年になる、恐ろしい夜。
「私がきちんと話しておけば、よっちゃんはあの部屋に行かなかったのに」
「・・・話してもらったところで、俺はわかんなかったと思う」
 むしろ強がって自ら乗り込んだに違いない。
「そうかもしれない。でもわかんないなら、わかるまでずっとずっと話すべきだったの」
 十歳の吉央は友達が少ないせいもあって、奥手で。祖母の教育方針で、テレビや漫画のラブシーンなどご法度だった。
 それでも、あの夜。
 暗闇の中で恐ろしいことが始まろうとしていると、本能で感じた。

 七年前。
 春になる頃から時々、奈津美が吉央の部屋で寝るようになった。
 『今日は、吉央の部屋にお泊りね』
 八つも上の姉はよく突飛な行動を起こす。口では勝てないのでしぶしぶ受け入れた。実は彼女が怯えていると気づくこともなく。
 『あの夜』は梅雨も明けてだんだん夏らしくなってきて、窓を開けて扇風機を回していても同じベッドに二人で眠ると寝苦しくて、真夜中に目が覚めてしまった。姉の女の子らしい花のような匂いがなんだか無性に恥ずかしく、火照った身体を鎮めるために洗面所で水を飲んだ後、はたと気づいた。
 自分が、奈津美の部屋で寝ればいいんだ。
 意気揚々と奈津美の部屋へ入り、ベッドに横たわった。部屋の中はやっぱり花のような匂いでいっぱいだったけれど、さらさらとしたシーツに頬を当てて冷たさを楽しんでいるうちにぐっすり眠ってしまった。
 そして、次に目を開けた時、真実を知る。
 最初は、誰かの声。
 寝ぼけたまま聞き返そうととしたら、口を強い力でふさがれた。
 目を凝らしても、何も見えない闇の中。
 黒い塊が、吉央の身体にのしかかっている。
 犬のような、熱くて湿った息。
 魚のはらわたのような、濁った体臭。
 大きな手が胸を撫でまわし、やがていきなり太腿を掴まれた。
 気持ち悪くて手足をばたつかせたら、パジャマを引きちぎられ、頬を叩かれた。
 顔半分がじんじんと痛い。
 口の中に、変な味が広がる。
 びっくりして、怖くて。
 指一本動かせずにいたら、黒い塊が言葉を発した。
 『そう・・・それでいい。大人しくしろ・・・』
 ねっとりしたものが首筋を這う。
 『なつみ』
 その瞬間、なぜか体の中にスイッチが入った。
「やだあっ!」
 急に振り回した腕が運よくどこかに当たった。
『がっ・・・』
 奇妙な声が聞こえたけれど、相手のひるんだすきにベッドからはい出て、ベランダへ続くドアの鍵を開けた。
『待て・・・っ、お前…っ』
 小さい頃に喘息を患って授業を休み、運動全般が苦手だった。高いところも嫌いだ。
 それでも。
 その時は、何も迷わなかった。
「こないで・・・っ!」
 手すりを掴んでベランダを乗り越えてなんとか屋根に降り、何事かわめく声を背中に受けながら、そのまま隣の家の屋根に向かって力いっぱい跳んだ。
「よしお!」
 寝静まった夏の夜に、物凄い音がして。
 膝と、両手が痛かった。
 あちこちすり傷だらけになっていたけれど、なんとか飛び移れたとわかった。
「たっちゃん、たすけて!」
 目の前の窓に向かって叫んだら、雨戸がすぐに開いた。
「よっちゃ・・・、吉央!」
 将は屋根に四つん這いになったまま動けない自分を見ると、すぐに窓から飛び降りてくれた。異変に気が付いたひばりたちがすぐに起きて大声を上げていたけれど、何を言っていたのかわからない。大柄な将が、あっという間に部屋まで引き上げてくれて。
「・・・吉央」
 将のベッドに載せられてもう一度名前を呼ばれた時、ぷつんと糸が切れた。
「うわーっ。わあああーっ」
 涙は、出ない。
 なのに、口と鼻から生温かいものがだらだら出てて。
 頬がじんじんしていて。
 わけのわからない声が出た。
「おとなしく、・・・しろって・・・っ」
 喉が、笛のようにヒューヒューと鳴る。
「なつみ・・・・、な、なつみって・・・っ!」
 うまく言えたか、わからない。
 でも、言わないといけないとわかっていた。
「おとうさんが、おとうさんが・・・」
 ずたずたな、その姿で。

『こんな、おおごとにして。なんて恥さらしな・・・』
 祖母の第一声は信じられないものだった。
 責めは襲った国男にではなく、子どもたちに向けられた。
 国男は悪くない。
 お前たちがいやらしい。
 あの人は、真顔で言い切った。

 家が、怖い。
 夜は、もっと、怖い。
 だけどあの人たちは、『普通』を要求した。
「話しても、話さなくても、多分同じだよ」
 吉央は、改めて思う。
 たとえ、時間を巻き戻してあの夜をやりなおしたとしても、変わらない。
 父の闇は、未だに終わらないのだから。
 若い時は強引なやり口が男として高評価を得て、仕事も女も好きなだけ貪り食った。だが時代が変わり、思うようにいかなくなった。気が付くと居場所がなくなり、現実を受け止めきれない国男は夜の街を徘徊した。酒を飲んで恨みつらみを吐き出しても、心の奥の泥はどんどん積もる。
「最初から、どっかおかしいんだよ、あの人は・・・」
 国男からの謝罪は未だにない。
 祖母はとうとうそのまま逝ってしまった。
 七年も経ったのに、と言う。
 自分たちこそが言いたい。
 七年も、経ったのだと。
「そういう人も、世の中にいるんだなあって思うようになった」
 だからと言って、国男を許すことは出来ない。彼の気配を感じただけでも鳥肌が立つ。めちゃくちゃに叫びたくなる。
「そう・・・。でも、ごめんね。ほんとうにごめん」
 あの頃奈津美はいつもぎりぎりのところで難を逃れていた。そのせいで逆に国男を煽りあの事件が起きたと奈津美が悔やむ。
 そうかもしれない。
 だけど。
「謝らないといけないのは、姉ちゃんじゃない。まあ、あれに謝られたところで、俺は無理だけど」
 時間は不思議なもので。
 今夜は、話すことが出来た。
 どんなことを思い出しても、涙を流すこともなく。
「あの夜、あそこにいたのが姉ちゃんじゃなくて良かったと、思えるくらいにはなったよ」
「・・・ありがとう、よっちゃん」
 奈津美の声が、少し、震えていた。
「・・・ねえちゃん、泣かないで」
「泣いてない」
 そういいながら、鼻水をすする音がした。
「泣かないで」
「泣いてない。今は、泣くもんか・・・」
 ハンドルを握りしめて前をにらむ姿が、すれ違った車の一瞬の光に照らされる。
「なんか、かわいいね」
「ばか」
 薄く開けた窓から、松葉の匂いがした。

 松林を抜けて海岸ぎわの駐車場に車を停めたとたん、大野姉弟は電気仕掛けの人形のようにぱちりと目覚めた。
「あ、もう着いたんだ」
「なっちゃん、ご苦労さん。ほんとにここまで来ちゃったのねえ。びっくりたわ」
 つぐみが両腕を上げてのびをしながら、ざっくりと言う。
「え?言い出しっぺはつんちゃんよね?まさか本気じゃなかったとか?」
 ぎょっとして奈津美が振り向くと、あはははと口を大きく開けて笑いながらつぐみは後部座席のドアを開けて出る。
「いや、本気本気。こんなのを仕込んどくくらい本気」
 ハッチバックから取り出したのはバケツと何かの袋。
「じゃん。花火しようよ。蚊取り線香もあるよ」
「・・・用意周到だね」
「クーラーバッグにコーラとアイスもあります。ほかにも色々ご用意しましたよ」
 得意げに仁王立ちするつぐみの横で、将が黙々と荷下ろしを始めた。
「さすがに、この時間は誰もいないな」
 大きな身体で、たくさんの荷物を軽々と持ち上げるとすたすた歩き始める。
「まだちょっとシーズンには早いからね。あ、将。あっちの波打ち際の方に運んで」
「波打ち際は危ないんじゃない?」
 将のまっとうな質問もぴしゃりとつぐみは打ち返した。
「引き潮だから大丈夫。ほら、さっさと行って」
 にぎやかに言い合う姉弟の後姿を慌てて追いながら、奈津美と吉央はちょっと笑いあう。
「ありがたいね」
「うん」
 胸いっぱいに潮風を吸い込んだ。

「まあ、これが私たちのお通夜ということで」
 小さく弾ける火花が濡れた砂浜に消えていくのを眺めながら、つぐみは言った。
「いけすかない・・・ていうか、ほんっと、困った人だったけどね」
「けど?」
 将が新しい花火に火をつけて、吉央に手渡す。
「この歳になるとそこそこ、感謝する部分はあるのよ」
「なんだよ、いきなり大人な発言」
「まあ、黙って聞きなさい。葉子さんってさあ、なんかいろいろこじらせて、女らしいことにめちゃくちゃ固執して、それを私となっちゃんに押し付けてたじゃない?女子な習い事、いくつもいくつもさせられたよね」
 二人が仕込まれた習い事は片手では満たない。学校の勉強より優先させられた。
「でも今、私役者の端くれでしょう。そうすると役に立つことがあるのよね。すでに身についているとお得感があるというか」
「ああ、なるほど」
「その点では、ありがとうって思うわけですよ」
「たしかに・・・」
 将と吉央も色々強要された。それが全く役に立たなかったかと言うと、そうでもない。
「まあ、料理はうまかったしな・・・」
「そうそう。料理は・・・。あの料理に舌を鍛えられたというか。ああ、なんか逆に悔しくなってきた」
 つぐみと将の話を聞きながら、吉央も少しずつ祖母を思い出す。可愛がられた記憶は残っている。それを真っ黒なもので塗りこめられてしまったけれど、小さい頃は着物の良い匂いのする所作の綺麗な祖母が大好きだった。
「やなところもいっぱいあったけど、殺したいほど嫌いにはなれなかったのよね」
「俺は、殺したいと思ったことあるけどな」
 将がつぐみの言葉をあっさりと台無しにした。
「あ、私がせっかくきれいにまとめようと思ったのに」
 姉の抗議を冷たい笑いで吹き飛ばし、将はまっすぐに応えた。
「まとめなくていい。俺は汚い気持ちのまま、あのばあさんを送り出す」
 それでも、将は。
 吉央は目を閉じて、海の音に耳を澄ました。

「…ねえ、よっちゃん」
 耳元に奈津美の柔らかい声が届く。
「目を瞑って、目を開けたらなくなるもの、なんでしょう?」
 唐突な問いに目を開いた。
「・・・うん?」
 広がるのは、真夜中の海。
 そして隣に座る奈津美。
 肩が触れるほど近く、優しい熱を感じた。
「むかーしね。幼稚園くらいの時によっちゃんが私に出したなぞなぞ。覚えてない?」
 言われてしばらく考えたが思い出せない。
 首を横に振ると奈津美は嬉しそうに笑った。
「よる」
「・・・え?」
「夜なんだって。よっちゃんが考えたなぞなぞ。かわいいよね」
「・・・そうなんだ」
 見上げると、深い藍に染まる空には灰色の雲がふわりと浮かび、そのはざまで星が風に揺られてちかちかと瞬いていた。
「夜、か・・・」


「ねえねえ、なっちゃん。ちゃんとあるのに、めぇつぶって、めぇあけたらなくなるもの、なーんだ」
「なんだろう・・・」
「あのね、あのね・・・」
 両手を口に当ててこきざみに足踏みをしながら、吉央は目をきらきらと輝かせる。
 答えを早く言いたくて、言いたくて仕方ないのが体中からあふれていた。
 小さな体は、わくわくでいまにもはじけそう。
 だけど、ちょっとじらしてみたい。
 奈津美はゆっくりと問題を復唱する。
「目を瞑って・・・目を開けたらなくなるもの・・・」
 我慢できなくなった吉央は、ぴょんと飛んで空に向かって叫んだ。

「よる!」


 -おわり-


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