『てのひらと、よる。』
「おやすみ、将」
「ん。おやすみ」
答えた後、電気を消した暗闇の中に横たわるわずかな沈黙。
そして、一分も経たないうちに規則的で穏やかな寝息が聞こえてくる。
手のひらには、暖かな熱。
吉央の、指先。
安心しきって委ねられる繊細な温もりに、誇らしさと困惑を感じるようになってかなり経つ。
七年前。
夏の始まりの頃の、少し寝苦しさを感じた夜。
『来ないでっ!』
夢うつつに聞こえた、子供の、悲鳴交じりの高い声。
『よしおっ!!』
煙草と酒で喉をつぶした男の声が聞こえ、一気に目が覚めた。
がん、と、すぐそばで聞こえるただならぬ音。
自分の部屋のすぐそばの屋根に何かが落下したのだと、すぐに思い、雨戸のロックを解除した。
『たっちゃん、助けて!』
隣に住む、同い年の吉央の声。
雨戸と窓を引き開けると、屋根の端に白い塊がうずくまっているのが目に入る。
真夜中に浮かぶ、真っ白な、小さくて細い身体。
「よっちゃ・・・、吉央!」
窓を乗り越えて、駆け下りた。
月明かりが、屋根を照らす。
いつもは綺麗に櫛でとかされている艶やかな黒髪はぼさぼさで、鼻と口からは血が出て、小さな頬から目にかけて不自然な赤い腫れが広がる。
両手と両足には飛び移る時にできたのかすり傷だらけで、全身から汗が出ているのに、掴んだ腕はひんやりと冷たかった。
『たすけて・・・』
事態に気付いた母たちが『早く、こっち!』と窓から叫んで手を伸ばしている。
向かいの家に目をやると、ベランダに捕まって『戻ってこいっ!』と叫ぶ男がいた。
吉央の父親。
本間国男。
自分はまだ十歳だけど。
アルコールにまみれたあの男が、息子に何をしようとしたのか、なんとなくわかった。
「よしお、こっち」
細い身体を抱えるようにして屋根を上り、窓から身を乗り出した両親に引き上げさせ、家の中に連れ戻った。
がたがた震えるままの吉央をどうしたらいいのかわからなくて、ベッドに座らせて名前を呼んだ。
「よしお」
途端に、目を見開いて吉央は獣のように叫んだ。
『うわーっ。わあああ────っ』
むき出しの細い太腿に、ぽたぽたと血が落ちる。
『おとなしく・・・・、大人しくしろって・・・』
言葉と一緒に血が唇から漏れ出す。
『なつみ・・・・、なつみって・・・』
将の向かいの、ベランダのある部屋は姉の奈津美の部屋。
高校生で、この界隈では昔から評判の、花のようだと言われるひと。
「おとうさんが、おとうさんが・・・」
国男は、高校生の娘と小学生の息子を間違えたことにも気づかなかった。
それ以前に、娘を襲う気満々だった、馬鹿な男。
血に濡れた太腿に、くっきりと赤い跡。
強い力で押さえつけられたと物語っている。
「よしお・・・」
タオルケットで、その痛々しい身体を覆った。
『たっちゃん、たっちゃん・・・』
どうすればいい。
どうしたら・・・。
泣き続ける吉央の手を握り続けた。
あの夜以来、吉央は自宅へ戻ることができなくなった。
殴られて裸にされたところをなんとか抵抗して逃げ出せたものの、未遂と軽々しく言えない傷が心に残った。
奈津美にしても、日に日に言動がおかしくなる父に恐怖を感じて吉央の部屋に隠れ、理由を知らない弟が涼をとろうと姉のベッドに転がり込んだために起きた事件に衝撃を受けた。
同居する祖母に恫喝されて強制的に連れ戻されたことはある。
彼女は息子の非を決して認めようとせず、過剰反応する孫たちがふしだらだと断罪した。
自分の正しさを証明するために今まで通りの生活を強要したけれど、吉央は敷居をまたぐと貧血を起こし、父の顔を見ると嘔吐する。
それを何度も何度も繰り返しても、責められるのは吉央だった。
男のくせに心が弱すぎると言われ、それまでにあった吉央の中の祖母に対する信頼は粉々に砕け散った。
膠着状態を救ったのは昔からかかりつけだった内科医で、最後にはこの騒ぎは近所中に知れ渡りつつあり、いつ誰から虐待で公的機関に通報されるか解らな状況に陥っているのだと半ば脅しのような説得に、世間体が大事な祖母はしぶしぶ手を引いた。
実際、自宅の一室で開業していた茶道と書道の教室は何かを察したのか辞める生徒が出始めていた。
結局、奈津美と吉央を大野家で預かることになり、奈津美は大野家の長女で二歳下のつぐみと、吉央は将と寝起きを共にする生活が始まった。
そして窓から自分の家が見え、それも子供が飛び移れる距離であることを怖がる吉央のために、将の両親は夫婦の寝室を息子の部屋と取り換えた。
共同生活が始まった当初は両親が吉央と川の字になって眠ってみたが、暗闇と大人の気配に怯える彼をどうすることもできなかった。
食べ物を少し口にしても吐いてしまい、外へ出かけられず、些細な音に反応し、ほとんど眠ることができず、吉央はどんどん衰弱していった。
数日経って、医師の提案で子ども同士ならば安心できるのではと、将と一緒にさせてみることになった。
部屋の電気を薄明りにして、一緒にベッドへ横になると吉央が微かな声でぽつりと言った。
「たっ、たっ、ちゃ・ん・・・。あのね」
ほとんど言葉を発しなくなった吉央の声は、喉の使い方を忘れたようにもつれる。
「うん?」
いつも通りを装って、応えを返した。
「お、おねがい・・・。おねがい・・が、ね。あるの・・・」
三つの頃にでも戻ったような、たどたどしさ。
「なに?」
少しだけ、空間を狭めた。
枕に片頬をうずめた小さな顔。
意外と長い睫毛。
そして、真っ黒な瞳。
微かな吐息が、将の鼻先にかかる。
「て・・・。てをね。つないで」
何度も何度も、せわしなく瞬きしながら、消え入りそうな声で頼まれた。
タオルケットの中から少しだけのぞく指先。
「・・・こう?」
できるだけ優しく手のひらを上から重ねて、ゆるく握ってみた。
「・・・うん」
ゆるゆると吐き出した息を感じる。
手のひらの中に、臆病な小動物を捕らえたような気分になった。
とくん、とくん、とくん・・・。
鼓動までも聞きとれるようだ。
「あのね・・・」
「うん」
声が少しずつ、力を取り戻す。
「おりてきてくれて、ひっぱってくれて・・・」
ささやきに、あの夜が甦る。
だけど、吉央なりに、夜を乗り越えようとしていた。
「たっちゃん、ありがとう」
細い指先が、ゆっくりと熱を帯びていく。
「たすけてくれて、ありがとう」
たまらず、握る手に力を込めた。
「ん・・・」
吉央が声を上げる。
少し怯えて後ずさろうとするけれど、離してやらない。
眼差しと指先に力を込めて、口を開いた。
「呼んだら、絶対、助けに行くから」
これは、願い。
「絶対、助けに行くから、俺を呼べ」
だから、そばにいろ。
「よしお、ぜったいだ」
俺から離れずに。
「・・・う」
吉央の息が震える。
オレンジ色の光に照らされた目から、透明な液体が流れていく。
「う・・・っ、ん・・・」
しゃくりあげながら、吉央が手の甲に額を寄せてくる。
発熱しそうな、熱い肌。
いきものの、暖かな匂い。
「たっちゃん、たっちゃん・・・」
手を握りしめて、泣きながら、将の名を呼んだ。
手のひらから、指先から、吉央の悲しみがしみ込んでいく。
「よしお」
将の身体の奥深くに、吉央の熱が、突き刺さった。
けっしてとれない、くさび。
それがなんなのか。
考えるまでもない。
将の、子供の時が終わろうとしていた。
あれから七年。
布団を並べて、そして手をつないで眠るのが決まりとなった。
昼も、夜も。
手をつなぐと、熱を感じるほどの距離に立つと、吉央の表情にわずかな力が戻っていく。
まるで孵化して初めて見たものが将であったかのように、吉央は無意識のうちに庇護を求める。
可愛いと。
あの夜から思った。
可愛くて可愛くて、食べてしまいたいとも、今は思う。
「ん・・・」
うつ伏せていた吉央が無防備に身体を開いて仰向けになった。
寝間着の隙間にある鎖骨も、それに続く肌も容易に想像できる。
なんて悩ましいと、ため息が出る。
だけど。
今は、このままで。
彼が、欲しいと思ってくれるその時まで。
「でも、そろそろ目覚めてくれよ・・・」
祈りを込めて。
願いを込めて。
手のひらの熱に語りかける。
-おしまい-
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