『うまい話には裏がある -2-』
お金って、あるところにはあるんだな。
邸宅の正面に馬車が停まり、騎士のひとりに手を引かれて地に降り立った瞬間、ナタリアは呆然と空を仰いだ。
王都にこれだけの広さの土地を所有し、離宮と見紛う規模の豪華絢爛な屋敷を打ち建てるとか、いったいどれだけの資産と権力がここにあるのだろう。
「これと、どう太刀打ちできるのか・・・・」
「はい?どうされました?」
最後まで脱落せずに同行できた数少ない護衛とは、過酷な旅程の間に同志めいたものが芽生えたような…気がしないでもない。
「いえ、お気になさらず」
根性を振り絞り、上品に見えるであろう笑みを浮かべてみせる。
一応、猫の一匹くらいは被っているつもりではいるが。
ちなみに、グラハム卿と侍従は後から追いかけてくることとなり、なんだかんだ体調不良が長引いて今もはるか後方の都市でぐずくずしているはずだ。
彼らは母たちに酔い潰され重い二日酔いに侵された身体ではあの朝出発することはかなわず、なんとか生き残った一部の護衛たちにナタリアを預けた。
見栄より納期を守ることを優先させたらしい。
そして、各都市で馬を替えながら10日あまりでここにたどり着いた。
悪路を馬車で飛ばされると腰に来るので、2日目からナタリアが申し出て自身も乗馬し、馬車は宿場へ置いてきた。嫁入り道具と一緒に後からゆっくりどうぞと後発組への伝言を残して。
リロイには2日目の晩にこっそり会えた。
驚くことに彼の肩に届く綺麗な金髪は短く乱暴に刈り込まれていた。
なんでも、出発前にルパートが印象操作のために適当に切ったという。
辺境での暮らしでも変わらなかった優雅な容姿が、野性味を帯びてまるで傭兵のようになっていて驚いたが、所詮美形はどんな姿でも様になる。
短い間に意見交換した結果、事情を知らない護衛たちと王都へ乗り込んだ方が安全だろうということになり、ナタリアは翌朝自らの騎乗移動を主張し、責任者から了承された。
色々と疲れる日々だったが、あの男と10日間狭い空間で一緒にいるよりはるかに快適で、母と義姉に感謝だ。
ただし、ただでさえこんがり焼けた肌がさらに雄々しさを極めてしまったかもしれないが。
ちなみに、最終日に泊まる予定にしていた宿に家紋入りの立派な馬車が待機していたので、そこで護衛ともども身なりを何とか整えいざ出陣という感じだ。
そして、たどり着いた現在である。
ああ、都会の鳥はさえずりさえもささやかで上品だ。
はやく田舎に戻って雄たけびを上げる賑やかな家畜たちに会いたい。
「グラハム卿なしで、本当に大丈夫なのかしら?」
「昨日、ローレンス様への連絡は通っておりますので…」
まあ、それはそうだ。
「わかったわ。では行きますか」
「はい。こちらになります」
ダドリーの騎士よりはるかに立派な衣装に身を包んだ背中を眺めながら後に続く。
扉が開き中へ入ると、灰色の髪のいかにも執事といういで立ちの男が出迎え、目が合うなり優雅に頭を下げた。
「ようこそおいでくださいました。初めましてダドリー伯爵令嬢。私が執事のセロンでございます」
出迎えたのは、この執事と若い侍女の二人だけだ。
装飾も掃除も行き届いたホールで、執事の声が反響する。
これだけ贅を尽くしているからには相当な数の使用人がいるはず。
当主の婚約者様をお出迎えするにはずいぶんな扱いだ。
まだ正式に認められていない…なんてことはない。
とすると。
ナタリアは周囲に目を走らせ考える。
これ、喧嘩売ってる?
ずいぶん舐めた真似してくれるわね。
にいいっと唇を上げた。
「初めまして。ナタリア・ダドリーです。さっそくですが、ウェズリー侯爵はご在宅ですか?私としては出来るだけ早くお会いしたいのですが、可能でしょうか」
ここは先手必勝だと思っている。
へんな横やりが入る前に、できるだけ情報を引き出しておきたい。
おそらく、ローレンス・ウェズリーは・・・。
「・・・はい。主は現在執務室におりますので大丈夫です。しかし、ずいぶん疲れる旅だったとお聞きしているので、本日はとりあえずお部屋でゆっくりお休みいただこうかと思っていたのですが…」
慇懃な返事を、即座に跳ね返す。
「まあ、ご当主様にお会いせぬままくつろぐなんて、そんな図々しい真似はできませんわ」
ナタリアは大げさに肩をすくめ、ぐずくず言わずにさっとと会わせろと直球で攻めた。
身柄を拘束し軟禁状態には早くしておきたいが、ローレンス独りでの対面は避けたい。
グラハムもしくは誰か大公の腹心に立会いをさせたいのだろう。
数時間でも引き伸ばしたいのだろうがその手には乗らない。
「お気遣いいただきありがとうございます。ですが、一刻も早くウェズリー侯爵にお会いしませんと。・・・私が思うに今回のお話、齟齬があるような気がします。ことが公になる前に素早く処理した方が侯爵家のためかと思いますの。だって」
すっと執事のそばにより、声を潜める。
「あなたも私を見た瞬間、驚いたでしょう。実は」
わざわざ見なくとも、相手が息をのんだのがわかった。
このセロンは、おそらくもともとはローレンスに長く仕えた侍従だ。
可愛くて仕方ないはず。
ナタリアに対するあからさまな態度はそこに起因する。
「ローレンス様のためにも、早く解決すべきですわ」
彼の中の正義は、ローレンス・ウェズリーの幸福。
動揺したところでさらに攻めた。
「・・・は」
よし。
忠犬が服従のポーズをとった。
とりあえず、お座りって感じか。
これをいずれは伏せさせ、腹を見せるくらいにせねばならない。
「それでは、執務室へ案内してくださる?」
「・・・こちらになります」
第一関門は突破した。
最高級の大理石を使った堅牢な造りの階段をのぼり、贅を尽くした装飾で目がくらみそうな回廊を歩いて扉の前にたどり着いたときには、ナタリアの気力は二割ほど削られていた。
壁に飾られている絵の額といい、壺と言い、生けられた花と言い。
どれだけの金と権力が動いている事か。
そうか、こういう風に来訪者を屈服させるために無駄に金を注ぐ必要があるのだな。
金持ちのありようを一つ学んだナタリアだった。
「失礼します。ナタリア・ダドリー伯爵令嬢をお連れしました」
執事が扉の前で一声挙げると、ほどなくして扉が開く。
もちろん扉の前には左右に護衛が一人ずつ。
室内にも護衛一人、そして侍従と侍女が一人ずつ。
王室並みの配置は通常なのか、それともナタリアが来ると解っていたからなのか。
入室を許可され執事の後に続きながら、ナタリアは口角を上げる。
「ようこそ来られた、わがウェズリーへ」
優雅に机から離れ手を広げてやってくる男が目に入る。
長身でしっかりとした骨格と広い肩幅、そして長い腕。
ダークゴールドの金髪は綺麗に後ろに流され、理知的な額があらわになり、綺麗に整えられた眉とすっと通った鼻筋青みの強い灰色の瞳、そして厚めの下唇。
目尻が少し垂れ気味なのが却って色気があり、魅力を増している。
二十代後半の男の姿としての理想が形となって現れたようなものだった。
これが、美の女神とレーニエの老害に溺愛された男なのか。
さすがのナタリアもじっくり鑑賞してしまった。
「・・・あなたは、ダドリー家の・・・?」
しかしナタリアを認識した瞬間、彼の、満面の笑みがわずかにほころびる。
視線が執事とナタリアの周辺をさまよったのを見て、ナタリアはことさらにゆっくりと優雅に礼を取った。
「初めまして、ウェズリー侯爵。ナタリア・ルツ・ダドリーと申します」
頭を下げ床に視線をあてたまま、執事を除く全員が動揺したのを肌で感じた。
さて、どの点に驚いたのだろうか。
いや、山ほどあるか。
まず、王都の流行に沿った衣装なんて金銭的にも時間的にも用意できるはずもなく、質素な身なりで挑んでいる。
そして、ナタリアは女性としては背の高い方でしかも顔も手も淑女としてあり得ないほど焼け焦げている。
家族以外にも褒められる唯一の長所が髪だが、色は鷹の羽のようにとことん地味でしかも女性教師のように一筋の乱れもないようしっかりまとめている。
どこから見てもこの豪奢な男の隣に婚約者として立つ令嬢には見えないだろう。
侍女が代理できたかと思ったのかもしれない。
「・・・あ、ああ。どうぞ楽にしてください。お待ちしておりました。・・・ナタリア伯爵令嬢」
顔を上げるとすでに表情は美しい状態に維持されていた。
さすがだ、美の化身。
「この度はお招きありがとうございます」
手を取りソファへリードされ、腰を下ろす。
「遠路はるばるようこそいらっしゃいました。道中ご無事で何よりです。お疲れになったでしょう」
「お気遣いいたみいります」
にっこり笑みをかえし、ナタリアはそのままぴたりと口を閉じた。
部屋の中に沈黙が降りる。
笑みを浮かべたまま一言も発しない当主と客の間に流れるただならぬ空気にのまれた侍女が、かたかた震えながら紅茶を入れた。
執事が咳ばらいをすると、逃げるように退出していった。
・・・というか、逃げ出した。
「・・・あの、お母上のヘンリエッタ様はお元気でしょうか。以前、王宮でお会いしたことがあったのですが、たいへん美しい方だったと記憶しています。たしか、ザルツガルドの王族につながるとか・・・」
無難な話題を探したようだが、はたしてそれは。
「ええ、まあ。母は金髪碧眼のいかにもザルツガルドの貴族らしい容姿ですものね。母の産んだ子供は私を併せて七人ですが、私と当主のトーマスだけダドリーの血が濃く出てしまいまして」
ダドリーの当主は代々暗い茶色の髪と目だ。
それ以外は濃淡の違いはあれど全員金髪で、華やかな顔立ちをしている。
「え・・・。そうなのですか」
「はい。他国に嫁いだ姉と領地にいる妹は母に似ています」
「妹君がおられたとは・・・」
瞳が一瞬光ったのを見逃さなかった。
彼が関心を寄せたのはどこだろう。
母譲りの美貌か、それとも。
「はい。もうすぐ四歳になります。私が言うのもなんですが、天使のように可愛いですよ」
「四歳…。そうですか」
がっかりしているのが手に取るようにわかる。
いや、解り易すぎるこの男。
「はい。それで、侯爵様」
姿勢を正し、問う。
「お望みは本当に私ですか。もしかして、母そっくりの容姿の者が来ることを期待されていたのではないでしょうか?」
ずばっと切り込んでみると、あからさまに動揺した。
「な・・・」
「グラハム卿は婚約申し入れの際に侯爵様が私をお気に召したとおっしゃってくださいましたが、それは多分に気を遣ってのこと。多額の援助を頂いた時点で私どもは政略結婚だと理解しております。ただ、もしも人違いということでしたら、今すぐ解消の手続きを行い、王都を辞しても構いませんが」
本音を言うなら、今すぐ婚約解消しておさらばしたい。
なんとかこの甘ちゃんを丸め込んでなかったことに出来ないだろうか。
向かいの美男子の脳内は激しく回転しているようだ。
執事はどうやらこの件に噛んでいないようで、固唾をのんで見守っている。
なら、彼独りでナタリアと戦わねばならない。
見た感じ、ぐらぐらだ。
・・・いけるか?これ。
「う・・・。い・・・。いや!それは困る」
「・・・は?」
こてん、と首をかしげて見せた。
・・・困る、か。
何が、だろう。
「いや、その・・・。あれだ、ええと、実は確かにこれは政略結婚だ。君の事を何一つ知らないまま、申し込んだ、すまない」
しどろもどろながらもローレンスは持ちこたえた。
まずは、白状して謝ってきた。
悪くない手だ。
「なら、辞めますか?なにも私のような田舎娘でなくても侯爵様なら他にもよりどりみどりだと思います」
「いや、それはできない」
「それはまた。なぜでしょう」
「じ、じつは・・・・。そうだ、あの、ゼニス公国の第三公女をご存じだろうか」
「ああ、シエナさまですね。大変お美しく、国の宝玉と言われるとか・・・」
「いや、見た目はそうなのだが、彼女は物凄い金食い虫だ」
「そうなのですか。存じませんでした」
ここであえて公女を話題にするということは…。
「実は、彼女をもらってくれと打診されている」
そこそこ親交国だ。
公式行事で顔をよく合わせるだろう。
もしかして、うっかり摘んでしまったのだろうか。
「ああ・・・。そうなんですか、おめでとうございます。ウェズリー侯爵様なら釣り合いもとれて・・・」
「とんでもない。あの女が妻になったら数年でうちは食いつぶされる」
確かにそうかもしれない。
しかし、それが理由なんて可能性は絶対ない。
これはあくまでも口実。
嘘をつくなら真実を取り混ぜた方が破綻がないというのは定石だ。
「なるほど」
話は見えてきた。
「それで、急なことで大変申し訳ないが、貴女が頼みだ。ナタリア嬢」
いきなりソファから立ち上がってつかつかと駆け寄り、ナタリアの前に跪いた。
・・・あ、やっぱり駄目か。
「確かに貴族名鑑を辿ってあなたの存在を知り、グラハムを使いに出した。しかしそれはわが国の令嬢の中で貴女が一番良いと思ったからだ。だからこのまま私と結婚してほしい」
言うなり、さっとナタリアの手を取り、指先に口づけをした。
そして、唇を指に押し付けたまま上目遣いに微笑んだ。
青い瞳がきらきらと光を放つ。
「あなたとなら、良き夫婦関係が結べると私は信じている」
少女なら誰もが夢を見る、おとぎ話の王子様の求婚そのものだ。
ナタリアは昔からその手の童話にさほど惹かれない上に、ローレンスの美貌に食指がわかない。
彼がこうしてきらきら輝けば輝くほど、逆にますます冷静になってしまう。
・・・めちゃくちゃ嘘くさいな。
茶番にもいい加減飽きた。
ナタリアはここが引き時だと観念する。
「わかりました。侯爵様がそうおっしゃるのなら・・・」
「そうか、感謝する!」
皆まで言わせず、いきなり掴んだままの指にぐいぐいと金属の輪を嵌めた。
「あの・・・」
薬指に装着されたのは、やけに大きな青い石のついた指輪。
「ブルーダイヤだ。君の指のサイズを知らないまま急ごしらえに婚約指輪を作らせたから、やはり少し大きいな」
ブルーダイヤモンド。
「まあ・・・なんてこと」
・・・これ一つで己の命の代償を十分賄えそうな気がする。
「気に入ってもらえただろうか」
「ありがとうございます。これほど立派な指輪は見たことがありません」
値打ちを考えると恐ろしくて気が遠くなりそうだが、ひとまずここは礼を言うことにする。
「ところで結婚式なのだけど、そのような事情で急ぎたい」
隣に腰かけ、息のかかる距離でローレンスはゴリ押ししてきた。
「・・・そうですか」
「なので、一週間後に執り行いたい」
「はい?」
「挙式の衣装は、母が着用したものをすでに手入れして用意しているのでそれをぜひ着て欲しい。靴など調整はそれほど時間がかからないとグラハムが言っていたから問題ないだろう」
・・・グラハム・・・。
奴には猪肉の刺身でも食わせるべきだった。
「一週間後」
「ああ。こぢんまりとしたものになるが、王都にいる貴族なら列席できるだろう」
いやいやいや。
その一週間後はすでに高位貴族ならお茶会などで予定がすでに決まっていますよね?
わざとか。
解っているが、腹は立つ。
「当初はもっとはやく執り行うつもりだったが、さすがに手続きの都合がつかなかった」
今日明日と言われるよりましか。
都合とやらに感謝した。
「父は、この婚儀をすごく楽しみにしている。もちろん私もだ」
大公の意思だという殺し文句を、この男は今までいろいろなところで使ってきたのだろう。
ナタリアもその威光の前にはひれ伏すしかない。
ローレンス・ウェズリーは満足げに笑う。
ナタリアに対する誠意も罪悪感も持ち合わせていないだろう。
今彼の中にあるのは、うまく丸め込んだという悦びだけだ。
しかし、手を取るしか生きる道はない。
「ありがとうございます。精一杯、妻として役割を果たしたいと思います」
ナタリアは己に命じた。
今、自分は世界一幸せな女なのだと、思え。
笑え。
笑って、媚びて、生きのびてみせる。
結婚式当日は、雲一つない晴天だった。
夜明け前から侍女たちが総がかりでナタリアを押さえつけ、渾身の力をもって着付けを施した。
「さすがにこの肌色は無理なのでは・・・」
ナタリアの首から上は漆喰でも塗ったかのようにまっ白に仕上げられてしまった。
これではまるで、数百年前の貴族か喜劇の女優のようだ。
表情筋を動かしたら、確実にひびが入る。
「いえいえいえ。ナタリア様のそもそもの肌の色なのですから、これくらい詐欺にあたりません」
ああ、やっぱり詐欺だと思っているんだ、本当は。
皮膚呼吸ができない状態なのも問題なのでは…と思いつつも、周囲は戦闘状態で殺気立ち、とても口を挟めない。
事の発端は、ナタリアのしっかり焼き上げた小麦色の肌がとんでもなくウェズリーが用意したウエディングドレスに似合わないと滞在初日の衣装合わせで判明したためだ。
侍女長を始め女性たちは半狂乱になった。
しかし、待ったなしだ。
そこから挙式前日まで、肌の状態を少しでも白くするためにあるゆる手立てを施されることに費やされた。
その過程で、ナタリアの元々の肌色を知ったわけである。
要するに、背中、胸元、腕に肌の色の境目がくっきり出ていた。
すると、彼女たちは何故かそちらへ寄せていこうと決めたらしい。
「ローレンス様もきっと驚くと思うけど?」
この厚化粧を見て、打たれ弱い新郎が壇上で腰を抜かすのではないかと心配だ。
「大丈夫です。グラハム卿に話は通してありますから!」
「あ、そうですか・・・」
せめてもの救いは、用意されていたドレスがコルセットで締め上げるものでなかったことだ。
胸の下で切り替えのあるローマ風エンパイヤドレスで、当初は背中と襟ぐりが大きく空き二の腕もむき出しだったが、レースをふんだんにとり付けてナタリアの肌の境界線を覆い隠すよう大きく変更した。
突貫工事のようなものだったにもかかわらず、前日にはドレスが出来上がり、しかも使用されているレースは文句なしの最高級。
財力で殴れるとこんな無理が効くものなのか…と感動した。
せっかくすっきりとした意匠だったドレスにごてごてと後付けせねばならなくなったのは申し訳ないが、宝飾もベールも靴に至るまで全て、この立場にならねば身に着けられないものばかりだ。
花を生けるのが得意な侍女が作ってくれたブーケの薔薇もとても良い香りがしている。
せめて今を楽しむことにしよう。
「ご両親もさぞ悔しい事だろうな。こんな時期でなければ何が何でも駆けつけただろうに」
「ご多忙のところ、立会くださりありがとうございます。いくら感謝しても足りません」
「いいや、光栄なことさ。あの小さかったナターシャの花嫁の父を私にさせて頂けるとはね」
長身の身体を礼装に包み隣で腕を貸してくれているのはカーソン・レドルブ伯爵。
父ジャックの長年の友人であり、義姉ディアナの父だ。
家族ぐるみの付き合いは先々代からになる。
ディアナはウェズリーの婚約申し込みを知ってすぐに実家へも伝令を飛ばし、結婚式に父代わりとして出席するよう頼んでくれた。
まだ十五歳のジュリアンをダドリーの立会人にした場合に生じる不利益の可能性を未然に防ぐためだ。
「それにしても、綺麗になったね、ナターシャ」
「おじさま・・・。優しい慰めをありがとうございます。おかげで司教様までの道行きをなんとか正気を保って歩けそうです」
「・・・中身が面白いところは相変わらずなんだね、ナターシャ。大好きだよ」
「私も、おじさまの事を敬愛しています。父よりも」
「あはは、ジャックが今頃泣いてるね」
小声で軽口をたたきあいながら身廊を進むうちに、内陣にたどりつく。
両側にはウェズリーに招待された客たちが立ち並んでいるのがベール越しにも見えた。
うちうちのもので小規模だと聞いていたが百人くらいはいるのではないか。
その中に、ジュリアンを見かけて噴き出しかけた。
会うのは彼が王立学院に入学して以来だが、姉のかつてない姿に目と口が真ん丸になっている。
唇がぱくぱくと動いているのも見られて、ジュリアンをこれほど驚かせたなら、それで今日は十分仕事をしたような気になる。
祭壇前には、ステンドグラスから差し込む光を浴びて輝くローレンス・ウェズリーが待っていた。
金髪も白い肌もきらきらと光を放ち、彼の立ち姿はまるでギャラリーに飾られる肖像画のように完ぺきだった。
「ナターシャ、幸運を祈るよ」
「ありがとうございます、おじさまも」
レドルブ伯爵からの心からの言葉に微笑みながら、足を進め、ローレンスの横に並ぶ。
王都で二番目の位にあたる教会は堅固で壮麗な造りでかつ歴史も古く、ダドリーの田舎のそれとは比べ物にならない。
しかも、高位の司教が式を執り行うと知った時、どうしてたかが偽装結婚にここまで大掛かりな演出が必要なのかと不安が増した。
そんなナタリアの胸中もおきざりに、どんどん進行していく。
「私、ローレンス・ミゲル・ウェズリーは汝を妻とし、今日より永遠にいかなる時も共にあることを誓います」
こんなところでこんなにさらっと誓ってしまう、この男の晴れやかすぎる笑顔が、本当に恐ろしい。
「私、ナタリア・ルツ・ダドリーもこれよりあなた様を夫とし、共にあることを誓います」
うわべだけなぞりながら、心の中でナタリアは誓った。
神よ。
知恵を絞り、力の限りを尽くし、何が何でも、生きることを誓います、と。
そして向かい合い、指輪をそれぞれの指にはめ、司教の指示に沿ってローレンスがナタリアのヴェールを上げた。
「・・・っ」
ローレンスが息をのみ目を開いたのを間近に見られて、思わず笑ってしまった。
今日初めて素の部分を見た。
いや、彼は初日の会見から今まで、ずっと『ローレンス・ウェズリー侯爵』を演じてきた。
そこにきて、この驚異的な厚化粧。
乳白色の肌、薔薇色の頬、極限まで延ばされた長いまつ毛、紅でかたどられた唇。
記憶の中のナタリア・ダドリーとは別人だ。
替え玉だと思われても不思議はない。
「ローレンス様落ち着いて。これは侍女たちの努力のたまものです」
ナタリアが囁くと司祭にまで聞こえたらしく、彼は唇をぎゅっと引き結んだ。
しかし、頬の筋肉がぴくぴくと痙攣している。
「失礼しました」
ローレンスは我に返る。
「ああ・・・。そうか・・・。では、ナタリア」
彼の喉がこくり動く。
そしておずおずとぎこちなく両手を差し出し、ナタリアの頬を包み込んだ。
ゆっくりと彼の顔が降りてくるのをゆるく瞼を伏せて待つ。
「・・・・・・」
意外に長い間だった。
離れる時、互いの視線が絡み合う。
「・・・では・・・お二人ともこちらへ」
司祭の声に、二人は身体の向きを変える。
小机の上の婚姻宣誓書を示され、それぞれ署名した。
「ここに、二人が夫婦になったことを宣言します」
立ち合いの人々からの拍手が起こり、高い天井に反響して降ってくる。
讃美歌の流れる中、二人はふかぶかと息をつく。
「ようやく・・・」
終わった。
ローレンスの腕に手をかけて、ゆっくりと出口に向かって進む。
ヴェールを背中に流し視野が広くなった中、ナタリアは軽く会釈しながらさりげなく視線を巡らせた。
大公夫妻と兄弟は欠席。
それは予想通り。
あとは列席している女性の顔を、年齢を問わず全て頭に叩き込んだ。
彼は、誓いのキスを行いたくなかった。
でも省くわけにもいかなかった。
美しい夫に夢中な幸せいっぱいの新婦のふりをして、ローレンスを見上げる。
視線に気が付いた彼は少しぎこちない笑みを返してきた。
大勢の列席者には幸せだと思わせねばならない。
しかし、ある人物には解ってもらいたい。
けっして、この女を愛しているわけではないと。
「ごくろうなことで・・・」
香りを愛でるふりをして白薔薇のブーケに口元を寄せ、こっそり本音を落とした。
この教会の中に、この偽装結婚の、真の原因がいる。
ローレンスの両の手のひらに隠された二人の唇は、一瞬も触れたりはしなかったのだから。
教会からウェズリー侯爵邸へ移動し、庭園でウェディング・ブレックファストと呼ばれる披露宴が行われた。
立食形式ではあるもののテーブルと椅子は十分に用意され、出席者たちは思い思いに料理を皿にとり、会話を楽しんでいる。
料理を並べている場所にはテントを張り、テーブル席にもそれぞれ大きな傘を立てて日よけにしたりと設営は完璧だ。
そこかしこに花が飾られ、披露宴らしい演出が施されている。
教会列席者だけではなく披露宴から参加している人もいるらしく、結構賑やかだ。
そんな中をローレンスと挨拶に回り、彼の招待客しかいないとはいえ庭の片隅にいるジュリアンとレドルブ伯爵たちが座っているテーブルようやくへたどり着いた時には、ナタリアはさすがに疲労困憊だった。
しかし、社交慣れしているローレンスはここに至ってもそつがない。
「初めまして、ジュリアン君。今日は勉学に忙しいなか、出席してくれてありがとう。会えてうれしいよ」
「初めまして、ウェズリー侯爵。突然決まったとはいえ大切な姉の結婚です。たとえ試験前と言えども駆けつけないわけにはいきません。」
二人はにこやかに笑みを交わしているが、そらぞらしさが漂う。
十五歳のジュリアンは、兄弟の中で一番、母ヘンリエッタに似ている。
そして美貌と知性を祖先から余すことなく搾り取ったと噂され、ナタリアと似ても似つかない。
それがわざと口元だけ笑って目は冷ややかという顔芸をされると、魔物の域だ。
綺麗すぎて、怖い。
爽やかなはずの初秋の午後の風が、妙に冷たい。
「え、試験前だったの。ごめんなさいねジュリアン、来てくれてありがとう」
凍り付いた場を取り繕うべく、弟をぎゅっと抱きしめた。
「あら、けっこう身長伸びたのね。肩の位置が高くなってる」
背中をぱんぱん叩きながら、視線でローレンスを威嚇し続けるジュリアンをなだめた。
「あはは、綺麗で賢いジュリアンもナターシャの前では形無しだね」
朗らかに笑いながらレドルブ伯爵はローレンスに手を差し出した。
「ローレンス・ウェズリー侯爵。本日はおめでとう。ナタリアの父とは親友だし私の娘がダドリーに嫁いでいる以上、王都では父親代わりとしてこれからも親しくさせてもらえたらありがたい」
爵位は下だが、四十半ばのレドルブ伯爵のくだけた物言いを親し気な握手で返す。
「こちらこそ、これからよろしくお願いします。ところで、そちらの方は・・・」
同じテーブルについていた見知らぬ少年にローレンスは視線をやる。
黒髪に紫の瞳の神秘的な顔立ちに、ジュリアン同様育ち盛りの若木のようなすらりと伸びた身体。
隅で静かに座っていたから目立たなかったが、ジュリアンと正反対の夜を思わせる美形だ。
見るからに育ちの良い彼は優雅に立ち上がり、一礼をした。
「初めまして、ライオネル・バルアーズです。本日はお招きありがとうございます」
「・・・バルアーズ公爵の・・・?」
「はい。私がバルアーズ家の代表として出席させていただいています」
「ああ、妻の甥でね。エリザベス王太子妃の弟だよ」
さらりとレドルブ伯が説明するが、バルアーズ公爵には男子が一人しかない。
要するにこの少年は次の当主であり、王妃の弟ということになる。
「ジュリアンとは学友なんだ。それもあって出席してくれた」
レドルブは甥の肩に手を回して仲の良さを見せつけた。
「ええ。ジュリアンと今日こちらに伺うのを楽しみにしていました。素敵な結婚式ですね」
ライオネルは無表情でローレンスに世辞を言う。
・・・これはこれで威圧感があるから恐ろしい。
「それはまた。これほど親しい方が大勢王都にいるなら、ナタリアも寂しくないですね」
「そうなればよいのですが。ところでウェズリー侯爵。実は姉のエリザベスも式に出席したがっておりましたが予定が先に入っていたので、ナタリア様を後日王宮に招きたいとのことなのですが、よろしいでしょうか」
つらつら口上を述べながらローレンスの顔をじっと見上げる。
相変わらず、アメジストのように光る紫の瞳はなんの感情も写っていない。
「・・・王太子様にそこまで好意を持っていただけるとは光栄です。お忙しい王太子妃さまの邪魔にならなければいつでもどうぞ」
「ありがとうございます。さっそく姉に伝えます」
ふっと唇だけ笑みの形を作ったが、目元の筋肉は一ミリも動いていない。
ローレンスの隣でそれを見たナタリアはますます寒くなった。
さすが、ジュリアンと仲良しだ。
類は友を呼ぶ。
「・・・ナタリア」
「はい」
「挨拶回りはもう十分だから、きみはしばらくここでゆっくりしていくといい」
ローレンスはがんばった。
なんとかホストの務めを果たそうとしている。
「ありがとうございます。お言葉に甘えてそうさせていただきます」
心からの感謝を述べた。
「では、わたしはこれで。みなさん、是非またこの家へいらしてください」
「はい、是非」
「感謝します、ウェズリー侯」
言質は取ったと言わんばかりのジュリアンとライオネルの子どもに見えない威圧ぶりに、思わずローレンスは一歩後ずさってしまい、恥じたのか少し顔を赤らめて無言で踵を返す。
「ところでナターシャ。その厚化粧、なに?レドルブ伯爵が蝋人形を運んでるかと思ったよ?」
弟の身内ならではの容赦ない一撃に、立ち去りかけたローレンスは何もないところで躓きたたらを踏む。
「久々に会ってそれはないわ・・・。お話し合いが必要ねジュリアン」
新妻の地を這うような声に、今度こそローレンスは逃げ出した。
「で、なんでそのドレス?生地が上等なのは判るけど、ナタリアに一番似合うのはこういうのじゃないよね。ウェズリーの侍女たちはセンスないのかな?それとも事情があるの?」
「たぶん、後者でしょうね。お母様のウェディングドレスだとか言った気がするけれど・・・」
ローレンスの亡くなった生母は愛妾だったはず。
式は挙げられない。
「ちなみに、この厚化粧は確かに彼女たちのセンスよ。オペラ歌手が使う下地とか使っているの」
「ああ、なるほど。舞台で汗を流しても簡単に粗が見えない仕様なんだね」
「俳優ってすごいねえ」
妙なところで弟とレドルブ伯は感心している。
「技術は認めるわ・・・。ただ、よせばいいのに足の裏の色目に寄せちゃったのよね」
「足の裏・・・」
ライオネルが小さく呟き、じんわりと頬を染めた。
「ナターシャ。君、駄目だよそれ。足の裏だったら卑猥じゃないって思ったんだろうけれど、貴婦人は男に見せない箇所の一つだからね」
レドルブ伯は少し困った顔で指摘する。
「あら。言われてみればそうですね・・・。ごめんなさい、バルアーズ様」
「いや・・・。あの、どうか私の事はライオネルと呼んでください。若輩者ですから」
慌てて早口になった彼は、学生らしい初々しさが出ていてほほえましい。
「もったいないお言葉です。それより挨拶をせぬままで失礼しました。改めてごあいさつします。初めましてライオネル・バルアーズ公子さま。お忙しい中足をお運びくださりありがとうございました。どうぞこれからは私をナタリアとお呼びください」
「丁寧なごあいさついたみいります、ナタリア様。でも私はレドルブ伯の甥でありジュリアンの友としてここにいます。ですから、是非今後はライオネルで」
「・・・はい、わかりました。今後ともよろしくお願いいたします。ライオネル様」
二人の会話にレドルブ伯が感慨深げに頷く。
「大人になったね…ナターシャ」
「いや、レドルブ様。ナターシャも二十歳ですから・・・。というか、前回は肌の色の段差説明するのにシャツまくって腹を見せて、リロイに鼻血吹かせましたからね、この人。それより少しマシになった程度ですよ・・・」
「うわあ・・・。ナターシャ」
三人の視線がいたたまれない。
「ジュリアン…なにもここで暴露しなくても」
「いいや言わせてもらう。ダドリーに来てすぐのリロイはけっこうナタリアに押せ押せで、始めてお見かけした時も小麦色の肌が素敵で印象に残ってましたって言うから、いやいや、腹は生っ白いよ…ってズボンからシャツ抜いてへそ見せたよね。あの時はさすがに俺もルパートも石になったよ」
「そりゃ、吹きたくもなるね、鼻血。かわいそうに」
父親代わりのレドルブ伯はともかく、初対面のライオネルもナタリアをかなり残念な子という目で見ている。
今更なんの公開処刑だ。
「リロイがらみなら、あれか。四年前のデビュタントの化粧の事だね。うちの侍女たちには白塗りさせなかったものね。肌はそもそも綺麗だし生かす方向にって私とディアナが指示したし」
「あの折は、大変お世話になりました」
あり得ない話だが、ダドリー家には父が当主になってから王都のタウンハウスがない。
辺境にこもり切りで維持が難しく、イナゴの大群が押し寄せてきたときに金に換えた。
以来、王都滞在期間はレドルブ伯爵邸に寄宿させてもらっている。
「いやいや。綺麗だったね。あの時のナタリアのドレス姿」
ちなみにドレスは長姉の持ち物を一着譲り受け、濃紺で細いシルエットのものをハイネック長袖に仕立て直した。
本来デビュタントとは少女から淑女へ成長したのだとお披露目するのが目的なので、衣装はかなり露出度が高いものが基本だ。
しかし、こちらとしてはさすがに土方焼けした腕を晒すわけにはいかない。
苦肉の策だったのだ。
「王都の人でそういってくれた男性はおじ様くらいですよ」
もういっそのこと全身黒い女と思われた方が気楽とわが道を行ったものの、結果として色々な意味で悪目立ちしてしまったようで、様々な人がこの件を持ち出す。
「王都の連中が白肌信仰しすぎなんだよ」
「たしかに・・・」
指から二の腕までしっかり塗られた己の肌をじっと見つめる。
「まあ、立ち話もなんだし、いい加減座ろう」
レドルブ伯に促されテーブルにつく。
近くに控えていた給仕が軽食と紅茶をテーブルに並べ、去っていった。
身内の話で盛り上がっているのを見たからなのか、周囲から人はいなくなり静かになった。
「さて、さきほど話題に出たリロイだけど」
カップからの香りを楽しんでいるように見せてレドルブ伯が口火を切る。
「実は今日、私の従僕として連れてきたよ。さすがにここには入れないけれど、式には列席したよ」
「あら?ざっと見まわしたけれど気づきませんでした」
「髪の色を赤錆色に染めさせたんだよ。髪も短く刈り込んでいたしずいぶん印象が変わったけれど、元々が綺麗な顔立ちだからどんな格好も似合いすぎて嫌味だね、あれは」
「あはは。そうでしたか。まあ、気付かなかった理由はもう一つあるのですが・・」
「女性だけに焦点を絞って見ていたのかな」
「その通りです」
「理由は?」
「まあ突っ込みどころが色々ありすぎるのと、まず誓いのキス、少しも触れなかったのですよ、五秒もあの姿勢保ってわざわざ」
「五秒…数えていたんだ」とジュリアンは腹を抱えて笑う。
たいがい失礼な弟を無視して話を続けた。
「両手で口元を隠す所作も練習したような感じでした。この化粧に動揺しながらも、これだけは遂行しないとって使命感に燃えていましたし。それって・・・」
「参列者の誰かに操立てしていることを知らしめていた?」
「その通りです」
「なるほどね・・・」
「ただ、挨拶回りの時に感じたのですが、招待に応じた客で高位貴族は全部代理、あとはまるで数合わせの低位貴族ばかりですよね」
一部、ローレンスと深い付き合いがありそうな高位貴族が出席していたが、それ以外は家紋を代表して次男三男や令嬢で、いかにも義理立てした空気が濃厚だった。
枯れ木も山の賑わいとはよく言ったものだ。
「うん、良く気付いたね。実は今日、臨時閣議が王宮で開催されている。議題はどうでもいい内容だったな。それと、大公夫人主催のお茶会も開かれているね」
この婚儀を快く思っていないのだと勘の良い人なら気付くだろう。
「なるほど・・・。わかりました。でも、ならなぜ大公閣下は私との結婚を急がせたのでしょう」
「それはやっぱり、誰かのお腹にウェズリーの子どもが出来ちゃったからでしょう?そのドレス、いかにももう妊娠していますって感じだもの」
ジュリアンのうろんな目線がドレスを辿る。
「・・・やはり、そっちか・・・そうよね・・・」
ドレスを試着した時に、妊娠を理由に結婚し後日流産したと公表してほとぼりが冷めたら離婚するつもりなのだろうと内心安堵したが、結局グラハムが到着しても詳細は知らされないまま不安な日々を過ごした。
王都に到着した日以来ローレンスにはまともに会えず式の壇上で久々の再会だとか、たいがい雑な扱いだ。
とりあえず、これで公女の縁談から逃げるためという線は完全に消えた。
「今は、何らかの事情で結婚できない女性との間に子供が出来たわけですか…。そしてナタリア様の子どもとして届け出を出すための偽装結婚だなんて、最低の男ですね、ローレンス・ウェズリーは」
清廉な見た目そのままに、ライオネルは憤る。
若いなとほほえましく思いながらも、その気持ちが嬉しかった。
「そうならそうと、最初に言えばいいものを・・・。言えない事情って何なのかしら」
「既婚者か、婚約中というのが妥当かな。低位貴族なら派閥の誰かに金を積んで養女に仕立てるだろうし、平民なら愛妾にするだろう、ウェズリーなら」
「色々とちぐはぐすぎて、わからないのですよね」
「それにしても、本命に列席させて『仕方なく結婚するが、本当に愛するのは君だけだ~』って悲劇のヒーローを演じて見せるってその思考回路が気持ち悪いな」
「いやもう、こちらとしては多額の報酬をすでに頂いているので、どうぞ好きなだけ盛り上がってくれって感じなんだけど・・・」
そもそも、好みじゃないから痛くも痒くもない。
辺境の男たちに慣れたらどうも噛み応えがないというか。
「そういや、ローレンス様はお母様がお好みだったようよ。私を見てあからさまにがっかりしていたから」
「・・・ほんっと、たいがい・・・たいがいだな、ローレンス」
ジュリアンはテーブルの上で強く拳を握った。
「危なかったわね。ジュリアンがジュリアだったら、お鉢が回ってきたかもしれないわ」
「やめてくれ気持ち悪い。男に生まれて良かったと俺は感謝すべきなのか」
「まあそうね。私も男に生まれていればこんなことには・・・」
ふと視線を上げると、グラハムが鋭い目をぎらぎらさせてこちらに向かって歩いてきているのが見えた。
「時間切れのようね。本日は本当にありがとうございました」
ナタリアは立ち上がり、三人に一礼をする。
「ああ、そうそう。左舷が気になるんだった」
「左?なんで?」
ジュリアンたちは右側にいたので、通路を挟んで逆だ。
「ローレンス様の視線?では、皆さん、お元気で」
グラハムが声をかけてくる前に、さっさと足を進めた。
「ローレンス様がお呼びかしら」
「はい、ナタリア様。こちらへお願いします」
ナタリアの勇姿を、三人は黙って見送った。
「さて・・・。左舷か。なかなか鋭いね。あそこにはウェズリー侯の遊び仲間が何人かいたよ」
レドルブ伯は顎に手を当て思案する。
「遊び仲間」
ジュリアンは肩を落としうんざりとため息をついた。
「オトナに…なりたくないな、なんかもう」
「ははは、がんばれ少年」
気安い二人がじゃれ合うなか、ふいにライオネルが口を開く。
「左側…。そういや、ヒックス男爵令嬢がいたと思います」
「ヒックス男爵令嬢?知らないな」
そもそも、ヒックス男爵じたいが簡単に思い浮かばないくらい無名だ。
「こなれた雰囲気の女性たちが多い中でちょっと異質だったから印象に残っていて・・・」
幼いころから公子として教育されているだけに、ライオネルはあくまで冷静だ。
「エンパイヤ形のドレスでした。似合っていましたが」
「・・・わかった。調べる」
「私も姉に聞いてみます」
「王太子妃もご存じなのか、その令嬢は」
「はい、おそらく。王妃の侍女でしたから、彼女は」
紫色の瞳はまるで凪のように静まり返ったままだ。
「でも、在任期間はわずかだったと思います。すぐに見かけなくなったので」
今日と同じく印象に残っていたから、大勢の者が働いていたというのに名前を憶えていた。
「彼女の容姿は金髪に青い瞳」
「それは・・・」
「ヘンリエッタ様の若いころの肖像画によく似ているとも言えます」
その一言で、二人はすぐに気付いた。
「・・・あれか・・・!」
「ライオネル、まさか・・・」
さすがのレドルブ伯も動揺する。
その令嬢は・・・。
「もう、確定ではないでしょうか。条件がそろい過ぎです」
深く息を吐きだし、レドルブ伯は頭の中を素早く整理した。
「・・・ああ。話が見えたな・・・。だがしかし」
骨組みがわかったとしても、それがすべてではない。
まだ、何かあるはずだ。
慎重を期さないと、ナタリアはのまれてしまう。
「この話は、まだナタリアに知らせることはできない。ジュリアン。耐えてくれ」
「・・・はい、わかりました」
確証を得たところで、どの手を打てばよいのか。
すっかり冷めた紅茶を口に運びながら、それぞれ思いに沈む。
これから幾度も続く夜を。
ナタリアはどうやって乗り越えるのだろう。
「本日はお疲れ様でした。残られたお客様のお相手はローレンス様と従僕たちがいたします。まずは湯あみをどうぞ。準備は整っております」
ジュリアンたちと別れた後、ナタリアは自室へと導かれる。
開放的な披露宴とあって、招待客も小腹を満たしたら三々五々に帰っていく。
花嫁が最後まで付き合い必要はないとグラハムに言われた。
「ローレンス様のこの後のご予定は?」
数人がかりで手早く衣装と装飾を脱がせられているなか、侍女長へ尋ねる。
「侯爵様はご友人方と晩餐をご一緒されるそうです。みなさま既にかなりお酒を召されているようので、このままお泊めすることになると思います。奥様には大変申し訳ないのですが、夜まで応対するので自室にてどうかゆっくりされて欲しいとの侯爵様よりのご伝言です」
これほどの規模の祭事で一切もてなしに関わらないのは女主人としてあるまじきと思うが、でしゃばるなということだろう。
「ありがたくそうさせて頂くわ」
クリームで化粧を中和させ、温めたタオルでふき取ってもらいながらちらっと考える。
夜まで・・・。
夜通し飲んでこちらへはもう来ないということか。
それならもうこのまま明日の朝まで寝てしまいたいくらい疲れていたが、ゆっくりバスタブに浸かり幾分気分がすっきりしたところで着せられたのは室内着だった。
室内係のアニーがフルーツや焼き菓子など軽く摘まめる食事と飲み物をテーブルに並べながらナタリアを気遣う。
「朝からほとんど召し上がっておられないので軽い食事を用意しました。もしよろしければこのあと仮眠をお取りください。夕食も準備いたしますが、奥様からお声がかかるまでは邪魔いたしませんので」
少しでも横になれるのはありがたい。
それに、言われてみればお腹もすいた。
「ありがとう。夜まで適当にするからあとはもういいわ」
「はい、わかりました。どうぞごゆっくり」
ワゴンを押して退出しようとするアニーを呼び止める。
「ああ、そうだ。刺繍の道具とウェズリー侯の家紋の図案が欲しいと侍女長へ伝えてもらえるかしら。ハンカチの一枚もローレンス様へ贈っていないのが気になっているの。できれば早くとりかかりたいわ」
「・・・はい!必ず伝えます」
嬉しそうな返事に、侍女たちには女主人として迎えられてはいるのかもしれないと推測した。
アニーを始め侍女たちが退室し、ようやく一人になれたナタリアはほうと息をつく。
この館に到着した初日は客室へ案内されたが、翌日はこの女主人の部屋へ移動した。
外観でも十分驚いたが、この邸宅はつくづく規模が桁違いだ。
ナタリアに与えられたのは、この私室と寝室、そして大きな衣装室、浴室、化粧室。
さらに女主人専用の執務室と図書室まである。
ほかにも来客用に女性用の居間とサンルームと至れり尽くせりだ。
寝室を挟んで連なるローレンス専用の空間なんて言わずもがな。
初日に眩暈がしたくらいだ。
そのうえで多くの客を泊められる客室も完備、しかも更に離れが二棟あり、庭園、騎士団詰め所、厩舎・・・。
王都でこの規模。
領地経営を含めると、いったいどれほどの人間がかかわることになるだろう。
これを明日から束ねるのは一応自分だと思うと、その仕事量と責任に気が遠くなる。
そして。
ローレンスは何を望んでいるのか。
形ばかりの妻として幽閉するつもりなのか、それとも。
「まあ、飼い殺しされるつもりはさらさらないけれど・・・」
ナタリアはソファに身を預け、目を閉じた。
隣室に気配を感じて刺繍を刺す手を止め、ドアに向かって声をかける。
「・・・どなた?」
女主人の寝室へつながるドアは二つしかない。
今自分がいる私室と、ローレンスの寝室だ。
廊下に面した入り口はなく、私的空間としての秩序が保たれている。
「私だ。そちらへ行って良いか?」
昼間に聞いた時よりも低く静かな声に、ナタリアの中で緊張が走る。
「・・・どうぞお入りください」
ドアがゆっくり開き、シャツにスラックス姿のローレンスが入ってきた。
「もう先に休んでいると思っていたから、寝室が空で驚いたよ」
「驚かせてすみません。実はしっかり仮眠をとらせて頂いたものだから眼が冴えて。何かお飲みになりますか?」
手早く刺繍道具を片付けて端に寄せ、向かいの席へ導く。
「ああ・・・、そうだな。水を頂こうか」
ローレンスはソファに背を預けてくつろいだ。
「はい」
アニーが氷とレモンを浮かべた水を用意してくれていたので、それをグラスに注いで渡す。
「ああ、気持ちいいな。悪友たちにこれ幸いと飲まされたから水が欲しかった」
一気に飲み干すと、男は息をつく。
「とても酔っているようには見えませんが」
タイを外してボタンをいくつか開け胸元を寛げてはいるものの、乱れた様子はない。
しかし二杯目を注いでみると、彼はそれをすぐに手に取った。
「いや、けっこう酔っている」
仰向いてグラスの中の水を開ける時、動く喉が晒される。
「こうして、今夜君を尋ねるくらいには」
ダークゴールドの髪と青みがかった灰色の瞳。
古代の美神の彫像のような整った顔立ち。
正面から熱のこもった目で見つめられてようやく、ああ、本当にこの人は酔っぱらっているのだなと理解した。
「いらっしゃらないつもりだったのですね」
「うん。でも、正直ずっと迷ってた」
「なぜ?」
「君とは知り合ったばかりだし・・・」
少し下っ足らずでとろんとした口調に、あの水、実はアルコールを仕込んでいたのかと疑う。
「そうですね」
借金のカタに結ばれた結婚だし。
「グラハムがなんかガタガタいうし」
いったい、あの蛇面は何を言ったんだ。
あれを一度捕まえて、自白剤を飲ませるべきか。
「でも、見たいなと思って」
「・・・なにをでしょう」
「君の、本当の肌の色」
・・・そうきたか。
「・・・教会では、ローレンス様を大変驚かせたようで失礼しました」
ちょっと話題をそらしてみる。
「弟君も驚いていたね」
「ジュリアンは、化粧した私を初めて見たものですから。冬になったら色も落ちてあれくらいになるので、蝋人形は盛り過ぎです」
「ふっ・・・」
ローレンスが噴き出す。
「・・・やはり、あの時聞こえていたのですね」
「ああ、まあ・・・」
困ったように眉を下げているが、笑いの衝動は止められない。
「すまない・・・」
「いいえ。あの子は天使の皮を被った毒舌王子なので」
「なるほど」
三杯目に少し口をつけて、グラスをテーブルに戻した。
「彼も領地では日に焼けていたのかな?」
「体質の違いでしょうか、さほどではないような。それに、私は冬も猟や警備で長い時間外にいると雪に陽の光が反射して、またすぐに焼けてしまいますし」
だから、自分の肌の色は小麦色が基本だと思っている。
「そうなのか」
この様子だとウェズリーは領地経営を家臣に丸投げに近いのだろう。
「はい」
感心したように目をしばたたかせるローレンスを見てそう推測する。
「そうなると、やはり気になるな」
力技で話を戻されてしまった。
「きみを、もっと知りたい」
明らかな、口説き文句。
今、自分は戸籍上の夫に口説かれている。
「ローレンス様」
偽装結婚に、それは必要なのか。
あの、誓いのキスはなんだったのか。
父を説得し大金をつぎ込んでまで守りたい人がいるのではないか。
つじつまが合わない。
めちゃくちゃだ。
言いたいこと聞きたいことは山ほどあるが、ここでそれを口にして拒絶することはできないのだと、唇をかむ。
「・・・寝室へ、行きますか」
これは誘いではない。
決定事項。
ローレンスは雇用主で、ナタリアは所詮金で買われた女だ。
「ああ」
甘い、とろりとした微笑み。
王宮の女性たちは、きっと彼のこういう笑みに心を奪われたことだろう。
優しく笑いかけてみせているうちに手折られた方がいい。
殴られて、無理やり開かれれるよりましだ。
数時間前に侍女たちによって風呂場で磨かれ整えられた身体。
惜しげもなくレースを縫い付けられた白い絹のガウンとネグリジェ。
寝室にはとりどりの花を散らされ、甘美な雰囲気で満ちている。
自分は、新妻としての務めを期待されているのだ。
「・・・初めてなので、どうしたらよいのか、わかりません」
彼の灰色の瞳がぐんと青みを帯びた。
「導いてくださりますか」
視線を落とすと、膝の上で合わせた指先が白く見えた。
こんな自分でも、緊張することがあるのだなと他人事のように思う。
「・・・ああ」
満足げな、声。
彼は。
本気なのか。
後悔しないのか。
ふいに、慣れない香りが降りてきた。
酒と、男性独特の香水。
見上げると、目の前にローレンスが立っていた。
「行こう」
言うなり、ナタリアを抱き上げた。
「侍女たちはずいぶんとはりきったものだな」
部屋の中は花の匂いでむせ返るようだった。
薔薇の花びらを散らされた寝台の上にナタリアを下ろし、ローレンス自身も乗り上げてくる。
暗く灯された照明の下、白いシーツとナタリアの寝間着が浮かび上がる。
広い寝台の真ん中に二人は向かい合って座り、ローレンスはナタリアに手を伸ばす。
両手の指先から手の甲、手首と丁寧に口づけされてナタリアは戸惑う。
これではまるで、初夜だ。
いや、その通りだが、予想と違う。
もっと雑に扱われると思っていた。
腕を引かれ、顔を寄せられ目を閉じる。
すると、やわらかなものが口に押し当てられた。
何度も何度も押し当てられ、やがて囁かれた。
「唇を、開いてくれないか」
言われるままに緩く開くと、頬を両手に包まれて、深く唇をあわせてきた。
「・・・っ」
教会でのキスのふりと、全然違う。
何度も角度を変えて触れられ、吸われて、舌を入れられる。
聞いたことのない音が二人の間で行き交う。
唾液とレモンとアルコールと葉巻と・・・。
色々な味が混ざり合う。
苦しい。
どうすればよいのかわからず喉を鳴らすと、ようやく口を解いてくれた。
「・・・これも、初めてだったのか」
意外そうな声に、胸元に手を押し当てようよう答える。
「ええ・・・」
たぶん、この薄明りにも自分が真っ赤に染まっているのは丸わかりだろう。
「ダドリーは大規模な騎士団が駐在しているから、てっきり・・・」
一瞬にして、正気に戻った。
てっきり、男慣れしていると思われていたらしい。
こ の よ っ ぱ ら い め。
殴りたい衝動に駆られたが、なんとか抑えこむ。
「・・・領地で、私に手を出す命知らずはいません」
己の強さはまだ隠しておいた方が良いという理性も、ぎりぎり働いた。
「・・・一つ下の弟は狂犬と呼ばれる男なので・・・」
とりあえず、ルパートには悪役になってもらおう。
「それは・・・。頼もしいな」
狂犬を怒らせたらローレンスもただでは済まないことに気付いていないらしく、楽し気に笑いながら、ナタリアの耳元、首元に唇でついばみながら、ガウンを肩から落とした。
ネグリジェの襟は大きく開いていて、鎖骨から胸の谷間まであらわになる。
胸元に小麦色の肌の境界線がはっきりと出ていると気づいたローレンスは、まじまじとそれを見つめた。
「ああ・・・なんというか、本当にすごい…ね?」
明らかに動揺している。
「侍女たちも驚いていましたよ、こんなの見たことないって」
どんなに上等で煽情的な衣装を着せたところで、この農夫焼けは十分に現実に引き戻す力がある。
これで萎えて終了になってくれないだろうかと、着せられた時に思った。
「酔いも覚めたのではないですか?」
ここで一発、背中を押してみるのはどうだ。
「ローレンス様のような王都の貴族の方からしたらさぞ興ざめでしょう」
しおらしく目を伏せて見せながら、逃げ場もちらつかせる。
「それに、毎日農作業を手伝っているせいもあって女性らしい体つきではありませんし」
腕をまくって、木の皮のような色でこん棒のように固い腕を見せた。
騎士たちのような筋肉はつかなかったが、筋力はけっこうある。
二十センチほどの身長差があるが、いざとなったらここでローレンスをねじ伏せることは可能だろう。
「どうか無理をなさらないでください。ここまで大切にしていただいただけで充分ですから」
ここで引け。
そもそも、『何だこの農民は』って思っていたくせに、何欲を出してるんだ。
恋人のために操を守るつもりだったから来る気なかったと言ったんだよな?
だからもうお前の寝室へ帰れ。
道端に落ちた骨は拾うな。
ハウス。
「いや・・・。そんな・・・。もったいない」
「え?」
この坊ちゃんは何を言ってやがる。
「その・・・。これはこれで・・・」
目を輝かせながらナタリアの両肩を押し、ぽすんとシーツの海に沈めた。
無駄に良い香りの花びらがひらひらと散る。
「・・・すごく、くるね」
ローレンスはいそいそと膝をいざってナタリアの上に馬乗りになり、ネグリジェの前についていたシルクのリボンを引いて解き、ぐっと寛げる。
「いい・・・。逆に燃えてくる」
ローレンスの息が、荒い。
小枝を加えて走ってきた犬のようだ。
いつの間に、こんな展開になった。
「俺は、気に入った」
鎖骨に息がかかる。
「わたし」から「おれ」へ言葉が変わった瞬間、彼の顔つきも見たことのないものになった。
「・・・まさか」
そんな性癖が。
残念ながら、交渉は決裂した。
閨教育の短期集中講座か。
ナタリアは枕に顔を埋めてうめいた。
「甘かった・・・」
所詮は真綿にくるまれて育ったもやしっ子。
領地の男たちに比べて筋力も体力も持続力も劣るだろう。
そもそも、偽装結婚だし。
田舎娘など、抱く気も起らないはず。
そう高をくくっていた。
しかし、結果は。
「なんでこうなる・・・」
全身筋肉痛。
手加減抜きのみっちり強化合宿だった。
カーテンの隙間から陽の光が差し、鳥たちの元気なさえずりが耳に届いてようやくローレンスは正気に戻った。
「はっ、もう朝か!」
がばりと起き上がり、周囲を見回して青ざめる。
言い訳の仕様がないくらいに乱れたベッド、そしてナタリア。
「どうして俺はこんなことを・・・っ」
頭を抱え、最後まで言ってはならぬことを口走りながら慌ててベッドから飛び降り、己の部屋へ向かって遁走した。
「いや・・・。あれはないわ・・・」
これはまるで一夜の過ち。
いや、事実としてそうなのか。
見た目を裏切る中身の残念さでは頂点に立つ男、ローレンス・ウェズリー侯爵二十七歳。
これは、まだまだ序の口だ。
煮え湯を飲まされ続けても、切れてはならない。
腹をくくり直した。
気持ちが落ち着いたら侍女たちを呼び、とりあえず寝室の掃除と飲み物を頼んだ。
本当は風呂に入りたいが、とにかく休みたかった。
「おくさま。お加減が悪いようならお医者様を呼びましょうかと、執事が・・・」
執事が言うなら、グラハムとローレンスの承認済みということだろう。
むしろ、積極的に検査したいのが本音か。
「・・・そうね。お願いできるかしら」
吉と出るか凶と出るかわからないが、昨夜のことは様々の人の記憶に残しておく方が良い気がした。
「・・・ところで、ローレンス様は?」
受け取ったジュースを一口飲んでから尋ねる。
「ご友人をお見送りした後、お仕事に出られました」
アニーは少しきまり悪げな雰囲気だ。
用意された回答だったのだろう。
「そう・・・」
まあいい。
「お医者様が来られたら起こしてちょうだい。とりあえず眠りたいの」
リネン類を取り換えてもらい、新しい寝間着に着替えたナタリアの疲労は限界に近い。
「承知しました」
寝室を暗くしてもらい、侍女たちの去る気配を感じながらナタリアは目を閉じた。
「ああ、中がちょっと切れてるね。痛かったでしょう」
「ええ、まあ・・・」
痛かったも何も。
心の中で、顔だけ長所の男を呪う。
初めての相手が若くて美形でなおかつ女慣れしているなら幸運な方だと、領地で見送ってくれた女たちに言われた。
まあ、今年資金繰りが上手くいかなかったら金回りが良いが嫁の来てのない男の家へ転がり込むしかないと考え始めていただけに、運が良いうちに入る。
確かに。
酔っぱらっている割に、初手に関しては丁寧に触れてくれたと思う。
絶叫するほどの痛みは感じずに済んだ。
だけど、その後がいただけない。
ナタリアが丈夫だと気づいた瞬間、あの馬鹿は容赦しなかった。
発情期の獣だってもっと慎みがあるだろう殺意がわいてくる。
「念のため軟膏を処方しますが、絶対塗らないといけないわけではありません。しばらく安静にしていたら自然治癒するかなとも思います」
「王都には女性の医師もおられるのですね」
丹念に診察してくれたジェニファー・ホーンは、黒い髪を一つにまとめたおよそ三十代の女性医師だ。
辺境ではまず見かけないのでさすがにナタリアも驚いた。
「昔は女人禁制だったんだけどね。二十年くらい前から妻を男性に見せたくないというお貴族様の要望のおかげで門戸が開かれて、私としては好都合かな」
にやりと、片頬を上げてホーン医師は笑う。
とはいえ、身分制度と教育機会の釣り合いの問題で医師を職業に出来る女性はなかなかおらず、おかげで彼女は王都で引っ張りだこらしい。
「うちは名ばかりの子爵だったから、ぜひ女医で荒稼ぎしたいと思っていたので」
悪びれないところに好感が持てた。
それに手際も良い。
「ホーン先生のような方と知り合えて、心強いです。これからもよろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ。ナタリア様のような奥方様は王都では珍しいのでぜひこちらとしてもよろしくお付き合いのほどを」
「私のような…?」
首をかしげると、すっと顔を寄せ低く囁いた。
「その無駄のない筋肉のつき方。女性騎士でもなかなか見ないわ、素晴らしい。いつかじっくり拝見させていただきたく・・・」
「は・・・?」
思わずまじまじと至近距離からホーンを見返した。
「柔い女ばかり漁ってたローレンス様を一晩で趣旨替えさせたくらいですから、興味は尽きませんわ」
彼女の滴るような色気は危険だ。
「残念ながら、酔っぱらった勢いで珍味を食べただけです。正気に戻ったら逃げ出しましたよ」
「あはは。ナタリア様はやはり面白い方ですね。すっかり好きになってしまいました」
寝室にからりと笑いが響く。
人払いをしているので二人きりだが、さらに声を低めてホーンは囁いた。
「・・・本日使用された避妊薬は確実ですが、人によっては副作用もあります。嘔吐した場合はコップ一杯の水と一緒にこちらの方をお試しください。いくぶん胃に優しいので」
一包の薬を手に握り込まされる。
「・・・よく、お気づきになられましたね」
この人は、何者なのだろう。
敵なのか、味方なのか。
「ナタリア様のお口から感じる香りと、人脈からの想定ですね。王太子妃さまつながりで入手されたでしょうから」
もしくは、中立か。
「御明察です。ホーン医師の目は色々ご存じなのですね」
「だてにこの王都で荒稼ぎしていませんから」
なんにせよ、恐ろしい人だ。
少なくとも、今は、ウェズリーの指示でここにいる。
「私がウェズリー家から承ったのは、昨夜の確認と現在妊娠されているかどうかです」
「ああ、なるほど・・・」
処女を疑ったのはもちろん、誰かの子を孕んでいる可能性を危惧していたのか。
「それと、王太子妃さまからは生存確認を。今こうして診察を受けておられるのはナタリア様ご本人なのかも」
義姉たちには本当に頭が下がる。
こうして気遣ってもらえるなんて、どんなに心強いことか。
「とはいえ、その件に関しては王太子妃様に釣り上げられただけですが」
言うなり指先にちゅっと音を立てて口づけされて、さすがに衝撃を受けた。
「最強の身体を拝める機会よってそそのかされて、ほいほい引き受けてしまいまして。役得ですね」
甘ったるい声は、危険どころの話ではない。
しかも、ぬけぬけと。
このひとは・・・!
「王都って…すごいところなのですね」
「ええ。頑張ってくださいね、ナタリア様」
うふふ、と無邪気に笑われて、天を仰ぐ。
「どうか、何卒。お手柔らかに願います・・・」
王都入りしてまだ十日足らず。
いきなりこれだ。
まだとても、うまくお付き合いできる気がしない。
この鬼才とどう対峙しろというのだ、王太子妃よ。
王都には魔物が住むという。
都市伝説ではないと、ナタリアは知った。
爽やかな秋の風が木々の枝を揺らしながらやってきて、軽く頬を撫でて去っていった。
「挙式の時も思ったけど、なんかすごいね、お金持ちって」
カップからたちのぼる紅茶の香りを楽しみながら弟は笑う。
「もうどこから突っ込んで良いかわかんないや。披露宴とは全く別の場所にまだまだ手の込んだ造りの庭があってこのガセボにティーセット。別世界だね」
植えられた花々一つをとっても全て抜かりなく最高級。
そんなものに囲まれて数週間経った。
「まあねえ・・・。私たちのあの爪に火をともす毎日って?思うわね」
ダドリーでの暮らしとこの王都の暮らし。
どちらかが夢だと思えてくる。
「それで、どうなの、奥様稼業」
「まあ、そこそこかな」
セロン・忠犬執事とはうまくいっている。
先日は邸内の案内をしてもらい、どの領分までナタリアが取り仕切るべきかも教えてもらっている最中だ。
父が倒れた折に兄と手分けして家政を取り仕切り、領地経営も学んだ。
義姉が嫁いできてからは、最新の美術情報もある程度把握できていた。
王都の教育も受けられず田舎に引きこもっていた割には物知らずではないと評価してくれたようだ。
さらに出過ぎた真似はするつもりはないと再三口にしているのが功を奏してか、だんだん警戒を緩めてきてくれている。
執事を掌握しつつあるので、侍女や従僕といった内政は悪くない感触だ。
グラハム・蛇面家令とも腹の探り合いも今のところ失敗していない。
「あとは、旦那さまをどうするか・・・」
実は、初夜明けに逃げ出した夫はそれから一週間あまり行方知れずだ。
正しくは、居所を尋ねるたびに蛇面家令が『旦那様はご多忙につき・・・』と判で押したように繰り返すので面倒くさくなり、とりあえず放置している。
おそらくは、東西にある二軒の離れのどちらかに生息しているのだろう。
執務が滞っている様子はないし、侍女たちの雰囲気を見ていたらなんとなくわかる。
「ジュリアンはどうなの。ちゃんと勉強してる?いじめっ子とかいたら教えてよ?」
式からすぐの土曜日の休みに顔を出してくれたのは嬉しいが、姉としては心配だ。
「なにそれ、俺がいじめられると思ってたの」
「貧乏貴族なのに成績が良くて無駄に綺麗な顔していると、何かと突っかかられるんじゃないの」
金銭的な支援がぎりぎりの状態では確実に冷遇されるだろうなと思いつつも、心を鬼にして王立学院へ送り出した。
ジュリアンには最高の教育を施し、才能を活かせる場を見つけてほしいと思ったからだ。
「ご期待に沿えなくて申し訳ないけれど、あんな甘ちゃんの巣窟で俺が泣かされるわけないでしょ。最初によさげなヤツボコった途端なんか静かになって、教員も制圧してしまって暇だなあと思い始めたら、ナターシャのこれだよ。人生退屈しないね」
ふふふと、心底嬉しそうに笑う。
「なにやってくれたの、あんた・・・」
お前はどこのヤンキーか。
田舎で腐らせるのはもったいないと思ったけれど、このやんちゃ者を王都で野放しにする方がよっぽど危険なのか。
外見だけはステンドグラスに描かれた天使のように神々しく美しいというのに、中身は鬼畜だ。
そういや、自分の夫も外見だけ押しも押されぬ立派な男だったと思い当たると頭が痛くなってきた。
そういう星回りだとは思いたくない。
「俺はともかく、その旦那様はいったいどちらへ?俺、挨拶しないと礼儀がなってないとか蛇男から上へ報告が行くんじゃないの」
暗号なのか、隠語なのか。
家令のグラハム卿は蛇男で確定らしい。
「それがね・・・」
未成年で実弟のジュリアンにどこまで話すべきか迷っていたところに遠くのざわめきが耳に入る。
この広い敷地で普通は聞こえてくることはないのだろうが、たまたまナタリアたちは今風下にいた。
「・・・何かあったのか、様子を見てきてくれるかしら」
そばに控えていた侍女のひとりに頼む。
一礼して彼女は早足で去った。
しかし、アニーと護衛騎士のトリフォードは残る。
ウェズリーへやってきて以来、警備という名目上必ず誰かが控えており、ナタリアが一人になることはほぼない。
おそらく役目の一つに監視があるのだろう。
執事が屋敷内を案内してくれた時、さらっと説明のみで流したのが東西の別邸。
確かに使用人の居住区など、いくつか立ち入っていない場所はあるが、来客用に使うであろうこの二棟に女主人を通さないのは不自然だ。
とくに、東側は庭園も工事中なので入れないと言われた。
このガセボは敷地の北西にあり、ジュリアンとの茶席は執事の気遣いで設えられた。
「解り易すぎる・・・」
東の館で何かが起きた。
もちろん、そこにはローレンスがいる。
「ああ、そうだ。レドルブ伯夫人から預かりものがあったんだ」
レドルブ伯夫人は義姉ディアナの母だ。
ジュリアンはリボンのかかった小さな箱をテーブルに出す。
「義姉さんが渡したよく眠れるリキュールボンボンは中のアルコールが強すぎて身体に響くようだから、軽いのを取り寄せましたって。これなら毎日でも大丈夫だそうだよ」
言いながら、リボンを解き箱を開く。
中には綺麗な意匠を施された菓子缶があり、蓋を外すとさらに薄紙のカバーがありそれは小さな升目に区切られ、表面に数字が刻印されている。
紙越しに見えるのは薄くパステルカラーに着色された糖衣の粒。
見た目は、パティスリーが技を凝らした可憐なリキュールボンボン。
「面白いんだよね。アドベントカレンダーみたいになっているんだこれ」
数字は一から三十一まで。
七日ずつに分けてある。
「一日一粒ずつ楽しんでってさ」
一日一粒、必ず服用すべしということだ。
「なるほど」
これは避妊薬。
義姉にもらったのはあくまでも緊急用で、長期で連続服用すると身体を壊す可能性があると注意された。
ホーン医師が診察結果から判断して手配したものがレドルブ伯夫人の元に届き、不自然に見えない配送方法としてジュリアンが選ばれたのだろう。
「悪いわね。助かるわ」
せっかくの骨折りだが、初夜以来夫の訪れはない。
無駄になるかもしれないという考えがちらりと浮かんだ。
「体調を整える効果もあるらしいよ。女の子は、色々大変だね」
・・・これは四の五の言わずにこっちの指示に従えとジュリアンの目が語っている。
「そうなのよ。ダドリーにいたころのようにはいかないわね」
「たとえば、今日絞めてるコルセットとか?」
侯爵夫人としての一番の難関はこのコルセットだったかもしれない。
頼み込んで軽めの装備にしてもらったが、締められるたびに野放しだったダドリーに帰りたくなる。
「そう、コルセットとか・・・。ねえ、ジュリアン一度着てみないドレス。今ならまだ似合うと思うのよね」
男も一度は経験すべきだと思う。
この苦行を。
「いや、丁重にお断りするよ。いくら俺が美しいからって、それだけは勘弁」
「あらそう。すごく良い経験になると思うのに、残念だわ」
優雅にお茶でも嗜みながら、姉弟で冗談を言い合ううちに時間は過ぎていった。
結局、様子を見に行かせた侍女は戻らなかった。
彼女の手に負えない事態なのだなと判断し、日も傾いてきたので散会しジュリアンを送り出すことにした。
ガセボの近くに咲いていた花を庭師に頼んで摘んでもらい花束に仕立ててもらう。
「今日は会えてうれしかったわ。これを、レドルブ伯夫人に」
ダリアに薔薇に秋のハーブ。
ベルベットを思わせる色合いと花びらがきっとレドルブ伯夫人によく似合う。
本邸の正面に馬車を呼び、そこで見送る。
いつのまにか夕陽があたりを染め始め、風も冷たくなってきた。
ジュリアンはこの後レドルブ伯邸に泊まらせてもらい、翌日学生寮へ戻る予定だ。
「うん。また来るよ」
花を受け取るために身をかがめ、ナタリアの頬にジュリアンはゆっくり頬を寄せる。
そして、耳元で囁く。
「・・・さっきむこうでホーン見た」
女性専用の医師、ジェニファー・ホーン。
ナタリアのために呼ばれたわけではない。
ならば。
ジュリアンはガセボからの帰り道に化粧室を借りた。
そこは、東側への回廊を見下ろせる所だった。
「大好きだよ、姉さん」
ちゅっと音を立ててキスを落とし、弟は天使のように愛らしくほほ笑む。
「・・・大きくなったわね」
まだ十五歳なのに。
「俺は、もっと早く大人になりたいよ。そうすれば・・・」
一瞬、彼の中に小さなジュリアンの顔がふっと現れる。
本当は、泣き虫の甘ったれで典型的な末っ子だったのに。
「ありがとう。大好きよ」
抱き寄せて、ぽんぽん、と肩を叩く。
ついでに、ぎゅっと抱きしめた。
「ナタリア、花がつぶれる・・・」
「あ・・・」
二人の間に素直な笑いがこぼれた。
それから数日、東の館のあたりが騒がしい気配が続いた。
専任侍女のアニーはどうやら事情を知っているらしく、時折何か言いたげな表情を浮かべていたが、おそらくそれをナタリアの耳に入れたことが知れたら罰せられるのは間違いないので、気付かぬふりを通した。
基本的には執事の指導の下おとなしく侯爵夫人としての修行をし、息抜きには西側にある厩舎で馬を見せてもらい、飼っている犬や猫とも遊ばせてもらった。
生き物に触ると心が落ち着く。
厩舎にいた中で一番懐いてくれた猫を自室に連れ帰り、ティムと名付けた。
灰色のやわらかい毛は手触りが良く、心地よい。
話しかけると青い目をきらきら光らせ、ナタリアの言葉を興味深げに聞いてくれる。
とても賢い子だ。
ウェズリーで初めての友になった。
広いベッドで寄り添って横になると色々な考え事も忘れて眠れた。
さらに邸内では味方になりうる人ができた。
グラハムに指名され、日中のナタリアの護衛についている騎士のアベル・トリフォードだ。
彼はもともとダドリーから王都までの道のりを同行してくれた騎士のひとりで、あの強行軍を共にした時から友情めいた物が育っていた。
麦の穂のような髪に黒い目の優しい顔立ちの青年で、ナタリアより少し年上らしい。
ウェズリー侯爵騎士団の中では一番の腕前だそうで、正直、ナタリアの護衛にはもったいない人だと思う。
「お気づきかと思いますが、私はナタリア様にとっては因縁のある家の出です」
日の出とともに郊外へ遠乗りに連れ出してくれた時、そう切り出された。
彼の実家のトリフォード子爵は、ダドリーが裕福だった頃の平野の所領と現在の西の辺境山岳地帯の交換をウェズリー大公にねだった伯爵の配下だ。
おかげでダドリー家は貧しい暮らしへ転落し、ナタリアが借金のかたに政略結婚させられる羽目になったのだが、実は奪った方もその後領地経営が上手くいっていないらしい。
肥沃な土地だから左団扇で暮らせると思い込んでいたが、ことの経緯を知っている領民たちは全く従わない上に、不作が続き農民が流失している。
「なので、ウェズリー大公に近い貴族たちの間では囁かれていますよ。ダドリーの呪いって」
「・・・それはまた、光栄な」
呪っていない。
そんな暇があったら、領民たちとうまい飯を食いたいと願うのがダドリーだ。
そもそも、呪うならウェズリー大公閣下一択に決まってる。
「・・・ん?そういうことなら、わざわざ私の護衛に回されたのは」
まるで、呪われてしまえと言わんばかりの配属。
「はい、ちょっとした嫌がらせです。大公閣下のお気に入りの方の誘いを先日お断りしたので・・・」
「出た・・・。ご愛妾がらみ」
「ご存じですか」
ご存じも何も、リロイはまさにそのパターンなのだから。
「ええ、何人か被害者がわが領内に逃げ込んできているので。おかしいと思ったのですよね、トリフォード卿ほどの方が私の護衛になどと」
「いえ。幸運でした。護衛業務に専念させてもらうほうが、変に絡まれないので・・・」
アベル・トリフォードは子爵家三男。
この邸内では平民に近い扱いだ。
「ああ・・・。なるほど」
厩舎へ顔を出すようになって気付いたのは、ウェズリー騎士団のまとまりのなさだ。
実力と出身がかみ合わないのはどの騎士団でもおそらく同じだが、コネの強さが階級に反映されている所はたいてい戦力的に脆弱になる。
正直、ウェズリー侯爵騎士団は家格と美形を揃えただけのポンコツだ。
おそらく、いざとなったらルパートひとりで全制圧出来るだろう。
ここまで見た目と数だけ合わせたお飾りになってしまったのは、ひとえにウェズリー大公の威光で襲われる心配がなく、かつ他国との戦争がないためだろう。
となると、大公に倣う高位貴族たちにとっても騎士団は単なるアクセサリーでしかない。
それで碌を食んでいる者たちもそれを是とするならば…。
有事にこの国は、弱い。
藁の家に住んでいるようなものだ。
「トリフォード卿。正直者のあなたに、私の秘密を一つ教えます」
だから、冗談めかして告げることにする。
「正直者、ですか?」
空気を読んで、彼は笑ってくれた。
「私、実はけっこう強いのです」
「・・・は?」
「実戦ではおそらく、あなたより弱い騎士たちはそんなにかからず倒せます」
ここは、早朝の郊外。
見渡す限り広がる草原の中、馬上のトリフォードとナタリアの二人きり。
聞き耳を立てている人などいない。
「これから時々、朝稽古しませんか、ここで」
いざという時に戦えるように、戦いの勘を研ぎ澄ませたい。
「あなたも、私も、強くなれるように」
このままウェズリーで侯爵夫人を演じていたら、きっと小さく弱くなってしまうだろう。
「もっと、もっと、強くなれるように」
狩られるくらいなら、狩ってやる。
ナタリア・ルツ・ダドリーとしてのまなざしで、アベル・トリフォードを誘う。
「・・・それは。楽しそうですね」
アベル・トリフォードはふわりと笑った。
それは従僕の控えめな優しいものではなく、騎士としての野心に満ちた、男の顔だった。
トリフォードとの朝駆けから数日後、事態は動いた。
ナタリアと使用人たちで築きつつあったささやかな平穏を乱したのは、ローレンス・ウェズリー本人だった。
「お待ちください、ローレンス様」
ざわめきが一階から聞こえてくる。
「なにかしら」
「・・・すみません、ちょっと失礼します」
その時、ナタリアは執務室で執事のセロンと使用人の待遇の件で打ち合わせ中だったが、突然の当主帰還の気配に彼は慌てて退室した。
「ローレンス様、いかがなされ・・・」
廊下でセロンが応対に出たが、その声は途絶えた。
立ち上がり、様子を見ようと扉に手を伸ばしたその時、いきなり開く。
まず目に入ったのは、仕立ての良い濃い灰色のジャケットと濃紺のベスト。
しかし、襟元はボタンをいくつか外し寛げられている
「ローレンス様・・・」
目の前には息せき切って肩を揺らすローレンス・ウェズリーがいた。
「どうされました?」
あの夜から二週間近く経っている。
半月ぶりに顔を合わせる夫婦としては間抜けな言葉だが、それ以外思いつかない。
「ナタリア・・・」
言うなり、抱きしめられた。
「ようやく会えた・・・」
すごいな、この人。
腕の中に囲い込まれ、胸に顔を押し付けられたままナタリアは冷めていた。
ローレンスは寝食も執務も東の館でずっと行っている。
領地視察へ出かけたわけでも、王宮に泊まり込んでいたわけでもない。
東の館の佳人と蜜月を過ごしていたはずだ。
ナタリアですら知っている。
なのに、まるで不測の事態で新妻に会いにこれず、焦れていた体なのは何故。
いや、本気でナタリアに焦がれているというのなら、記憶喪失か二重人格を疑うべきなのか。
「ローレンス様・・・」
そっと背中に手を回しながら、ローレンスの身体ごしに見える家人たちに目を向けた。
『だいじょうぶ』
声に出さずに彼らにめくばせをして退出を促す。
執事とトリフォードは心配げな顔をしていたが、黙って引き下がった。
扉が閉まった瞬間、後頭部をわしづかみにされ、ぶつかるように荒々しく口づけられる。
「う・・・・」
性急に何度も角度を変え、すぐに舌を入れられ絡められた。
息が、うまくできない。
無理な体勢で仰向かされ、首と腰が耐えきれずに座り込む。
そしてドレスの上に彼の膝が落ちてしっかり押さえられ、身動きが取れない。
「ナタリア…。ナタリア。・・・タリアと呼んでいいか」
口づけの合間に低い声で情熱的に囁かれ、わずかに頷くと、さらに深く口づけられて意識がもうろうとしてくる。
もう、こうなると経験の浅いナタリアには太刀打ちできない。
「すまない、我慢できない」
謝罪と同時に襟元を左右に力いっぱい開かれた。
ばり、と布を割く音といくつものボタンが飛んで床をはねて転がっていく音。
ああ、あのくるみボタン、後で回収しないと・・・。
なぜか、そんなことを考えた。
「タリア」
そのまま抱き込まれて床に倒され、上に乗るローレンスの顔を見つめる。
窓から射す昼の日差しになにもかも晒された。
性急に脱がされて破れたドレス、散らばるボタン、投げだされたローレンスの上着。
そして、飴色に磨かれた床がナタリアの背をひんやりと冷やす。
かろうじて両腕にシャツをひっかけた夫の肌はもう汗ばんでいて、胸元もほんのり上気している。
「タリア、タリア、タリアタリア・・・」
呪文のように、付けたばかりの愛称で呼ばれた。
自分の上でせわしなく動めく手と足と唇と、吐息。
まるで、愛しているかのように触れる。
ナタリアはあえなくのみ込まれていく
「きみの身体は、なんて綺麗なんだ」
何が真実で、何が嘘なのか。
考える力を奪われ、ローレンスの熱にとかされた。
そよ、と暖かい風が肌を撫で、ざらり、と頬に何かが触れた。
「あ・・・」
目を開くと、みゃ、と灰色の猫が小さく鳴いた。
「ティム・・・」
柔らかな頭をなでるとゴーゴーと喉を震わす。
「これは・・・」
ここは自室のベッド。
窓の外を含めて周囲はしんと静まり返り、今は深夜なのだなと推測する。
と、ここにきてようやく意識がはっきりした。
「ちょっとまって、これって」
がばっと起き上がり、身体を見る。
清潔なネグリジェ、腕を触るとさらりとした感触。
「さいてい・・・・」
瞬く間に記憶がよみがえり、額に手をやり呻く。
情事は、日が暮れるまで続いた。
しかもあの男ときたら。
やるだけやって満足したら、朦朧としているナタリアに下着を一枚着せて長椅子に横たえ、アニーを呼んで部屋から出ていきやがったのだ。
引き抜かれたコルセットも破れたドレスもそのままに。
そんな惨状を使用人たちに晒されたナタリアの立場など、全くお構いなしだ。
入室したアニーが息をのんだところで、ナタリアの気力は限界を迎え、あとはわからない。
ならば。
・・・と、いうことは・・・。
「いっそのこと、ころして・・・っ」
両手に顔を埋めて叫んだ。
執務室から寝室まで運んでくれたのはトリフォードだろう。
羞恥で死にたくなる思いを、ナタリアは初めて知った。
ひとは、羞恥くらいでは死ねない。
いや。
とりあえず私は、死なない。
湯に首まで浸かってナタリアはため息をつく。
レモングラスのバスソルトの香りに、気分がずいぶん落ち着いてきた。
大貴族の妻になって一番よかったと思うのはこの浴室かもしれない。
最新式の技術が施され、蛇口をひねれば熱湯と水が出る。
だからこうして真夜中に使用人を起こさずにバスタブに湯を張り、一人反省会を行うことも可能だ。
そもそも。
賃金前払いなのだ。
この結婚は。
たかだかこのくらいでガタガタ文句を言っていたら、違約金を取られてもおかしくない。
「偽装結婚舐めてた」
温まった手に顔を埋めてため息をつく。
初対面の感触では、てっきり恋人に貞操を誓って偽物には指一本触れない、または義務的に処女を破って終了だと予想していた。
ところが、初夜に続き昨日のあれだ。
「これは幸か不幸か・・・」
おそらくお互いにとって予想外だったのは、身体の相性が良いことだ。
正直、意識が飛ぶくらい気持ちよかった。
誰が見ても貴族の夫人らしからぬ扱いだったけれど、屈辱を感じる間もない快感だった。
ローレンスもそんな感じのことを最中に何度も口走っていた。
あれが場を盛り上げるための世辞だったのならたいしたものだ。
「でも、とにかく全てが筒抜けよ・・・。勘弁して」
ご当主様が急にもよおして本館の正妻の所へ突撃し、いきなり床に押し倒して長時間にわたって情事を行った。
そして気が済んだら身支度を整え、何食わぬ顔して恋人の元へ戻った。
きっと、館内の従業員全員に知れ渡った事だろう。
格好のネタだ。
雇用人数と顔を把握しているナタリアとしては本当に死にたくなる事件だが、こんなことでへこたれてはならない。
どこの屋敷も、大して変わらない。
要は、人数が多いか少ないかだ。
「負けるな、ナタリア」
なんせ、まだ真打と対決をしていない。
ローレンスは雑魚だ。
これくらいで。
こんなことくらいで。
「・・・っ」
手に顔をうずめたまま歯を食いしばる。
「朝になったら、平気になる」
朝になったら。
もう少し、強くなる。
「ナタリア様がお気の毒でなりません」
トリフォードの傍らで、アニーがスカートを握りしめ声を絞り出した。
「真夜中に自ら湯の支度をなさり、そのまま長い間じっとされていて・・・」
気付いた時にはすでに湯船に浸かっており、とても介添えを申し出る雰囲気ではなかったので、ずっと外で様子を伺っていたらしい。
「あれは、正式に婚姻した侯爵夫人に対する扱いではありません。あれではまるで・・・」
まるで、娼婦。
使用人の誰もが思っただろう。
ローレンス・ウェズリー侯爵の態度はあからさまだった。
突然押しかけるなり、床に押し倒し、ことを始めた。
ドアのそばで始めたため、服を引き裂く音や声は廊下で控える自分たちには丸聞こえだがお構いなしだ。
吐き出し尽くしてすっきりすると自分だけ浴室で清め、新しい服に身を包み、さっそうと東の館へ戻っていった。
食い尽くされて意識がもうろうとしている侯爵夫人を部屋に放置したまま。
申し訳程度に下着を着せて長椅子には載せていたが、部屋の中も彼女も乱れたままで、アニーは入室した途端、あまりの惨状に息をするのを忘れたという。
冷たい床に投げ出したままでないだけましだというのか、侯爵は平然としていた。
「・・・ナタリア様は」
尋ねると、アニーは今にも泣きそうな顔をした。
「気丈にふるまっておられます。さきほども、何事もなかった顔をされて朝食を召し上がられました」
「そういう方だ。私たちも、ナタリア様の前ではそうあるべきだろう」
それが、俺たちに出来る精一杯の礼儀だ。
「トリフォード卿・・・」
「私はここでお守りするから、いったん控室で顔を洗ってくるといい」
「感謝します」
顔を伏せたまま、小走りに去っていった。
部屋係のアニーは確か十八か十九歳くらい。
雑用から勤めて五年経つと聞いたが、ここのところの邸内の出来事は衝撃だろう。
ナタリア夫人が婚約者として王都入りして以来、自分とアニーが付き人として常駐で、それぞれ数名交代要員も含め、全員新しい女主人を信頼している。
ナタリア夫人は、挙式の翌々日には執事セロンに直談判して内政に着手した。
まずは使用人たちの雇用条件を見直し、居住空間に不備があれは即刻改善命令を出した。
王都中の使用人たちの賃金としてウェズリー侯爵家は悪くない。
しかし、最良でもない。
いつでも替えが効くと家令グラハムが考えているため、実に些細なことで首を切られる。
なぜなら、ここで勤めたことで箔が付き次の就職で有利になるため、就職希望者はいくらでもいるからだ。
その点を考慮して、侯爵家の名誉をぎりぎり保つ程度の待遇だ。
そこで夫人が真っ先に変えたのが、大貴族の割にはお粗末な従業員の食事内容だった。
もし満足のいく食事をしたければ自腹で賄えとのきまりだったが、己の給与で家族を養っている者が多く、とても融通できない。
だがグラハムに目をかけられている者たちは例外で、当主の知らぬところで贅沢を満喫していた。
だから少しでも良い暮らしがしたければ、グラハムの言いなりになるのが一番だ。
実質、コリン・グラハムはその手でウェズリー侯爵邸の影の権力者に成りあがっていた。
執事セロンもなんとか改善したいと思ったものの、グラハムはウェズリー大公直轄の家令。
逆らえるはずもなかった。
それらを瞬く間に見抜いた彼女は収支の見直しを行い、金の流れの穴を見つけて改修し、そこから従業員用の食材に充てる金額をかなり増やした。
次は寝室の改善。
さらに、体調を崩した者は医師に診察させ、薬も手配した。
様々な気遣いを示して即実行したため、あっという間に多くの使用人たちに慕われるようになった。
彼女の能力を認めず侮っているのは、グラハムの子飼いか、家格を誇る騎士団の上層部くらいだろう。
だから尚更、何も知らされないまま翻弄される女主人を、心から憂えた。
お気の毒に、と。
当主の妻への急襲から時はいたずらに過ぎていった。
不穏な空気を孕んだまま。
ローレンス・ウェズリーは、味を占めたようだ。
『東の館の佳人』へは本邸から急ぎの知らせが来たと嘘をついては、邸内のどこかで過ごす侯爵夫人を見つけ出しその場で抱いた。
そして欲を満たしたら、紳士然として東の館へ帰っていく。
あきれるほどに気まぐれで、場所と時間は選ばない。
ほんの短い逢瀬もあれば、長々と過ごすこともある。
全ては、ローレンスの気分次第だ。
それでも、夫人はいついかなる時も従った。
けっして心待ちにはしていないが、抵抗は一切しない。
それが妻の務めと諦観しているようだ。
一方、『佳人』は恋人裏切りに全く気付かない。
完璧な愛の中に護られていると信じて、東の園で幸せに暮らしている。
当然懲罰を恐れる使用人たちは、どこで何を見聞きしても双方に真実を知らせることはできない。
誰も非難しないのを良いことに、ローレンスは、この『ひそかなたのしみ』の刺激に夢中になっていった。
そんな日々のなか、トリフォードは何度も思い出す。
ナタリア夫人との出会いの瞬間を。
初めてその姿を見た時、なんて綺麗な人だろうと驚いた。
「この方が、ローレンス様の婚約者になられた、ナタリア様だ」
ダドリー領到着翌日の午後、二日酔いでぐらぐらの家令グラハムが吐き気に耐えながらも、トリフォード達護衛に紹介した。
前夜のダドリー家主催の晩餐会は、過剰なまでの接待ぶりだった。
ああ、これは潰すつもりだなと、末席から眺めながら思った。
これが娼館なら酔わせて身ぐるみはがせて翌朝下着一枚で道端に転がしてしまえるような熟練の女たちが、グラハムとその子飼いに配備されている。
トリフォードを始めとした一部下級騎士たちは見逃してくれるようで好きにくつろがせてもらい、嫌な上官から解放された。
ウェズリー家は出自とコネが優先され家格が低い者は犬扱いで、トリフォードは現在その枠に入れられていた。末席に配された数人も同じく。
それらを瞬く間に看破し、決定権のある者だけに絞って悪酔いさせる手腕はただものではない。
ダドリー家は多額の借金を抱え、領地と爵位の保全のためには娘を売るしかないだろうと聞いていた。
だからどうだというのだ。
天災の前には人は無力だとトリフォードは実家で経験している。
邸宅に着くまでに通った領内を見る限り、民たちの顔は明るい。
ならば、領主たちはとても有能なのだ。
その、れっきとした令嬢が平凡であるはずがない。
「初めまして、ナタリア・ダドリーです。これからの道のりをどうぞよろしくお願いします」
権力を振りかざして強制的に婚約し、有無を言わさず王都へ連れていかれるのに、彼女はすがすがしいまでの笑顔で騎士たちに礼儀正しく挨拶した。
「なんといっても大切なお身体なので、丁重にお運びするように」
それに対し、グラハムは失礼極まりなかった。
彼の言動から、令嬢への隠しようのない侮りがにじみ出る。
大誤算だ。
こんな田舎臭い女をローレンス様と並べて挙式せねばならないとは。
ウェズリーにはふさわしくないが、今はこれしか駒がない。
早々にすげかえれば良いだけだ
誰が見ても、一目瞭然だった。
しかし、ナタリア嬢を含めたダドリーの誰もがそ知らぬふりをし、その無礼な態度を追求しない。
彼らは十分に立ち位置を理解している。
大公の力は未だ絶大で、すぐに逆らうのは自殺行為だ。
全てを差し出したわけではなく、常に次の手を考えている。
器の違いを見せつけられているというのに、気付かないグラハムたちが滑稽だった。
そしてなにより、トリフォードには不思議でならなかった。
どうして、気が付かないのだろう。
ナタリア・ダドリー令嬢の魅力に。
令嬢はまるで、若い猫のようにすらりとしたしなやかな体つきで、凛とした空気も含めて何から何まで美しいではないかと。
艶やかな濃い茶色の髪と、豊かな光を放つ意志の強そうな琥珀色の瞳。
すっきりと通った鼻に、形の良い桜色の唇。
小麦色に焼けた肌も健やかで、生き生きとした彼女の表情に良く似合う。
女性にしては長身だがそれが却って手足をより長く見せ、優美な雰囲気を作る。
確かに、生母のヘンリエッタ夫人と義姉のディアナ夫人は噂通りの美しさだ。
しかし、ナタリア嬢が劣るとは、決して思えなかった。
むしろ誰よりも力強く輝いて、眩しいほどだ。
王都まで数日間一緒に馬で駆けて野営もして過ごすうちに、多くを知った。
ナタリア・ダドリーは王都で家に護られ着飾り男に愛されるのを待つ令嬢たちと違う。
全く別の次元で生きている。
彼女は、ダドリー伯爵家が領内で大切に守り続けた至高の宝玉。
そう感じた。
だというのに。
愚かなローレンス・ウェズリーは、まるで道端の石を気まぐれに拾ったかのように思い込んでいる。
そしてトリフォード自身、嫌気がさしている。
あのたぐいまれな女性のために何もできない己の血からのなさに。
「・・・どうか、お気遣い無用に願いますトリフォード卿。今日はもう歩けます」
腕の中でその人は気まずげに身体を縮めた。
「無理です。我々はナタリア様をそのままにできませんから」
夫人を毛布に包んで横抱きにし、廊下を早足で歩きながら断る。
「ナタリア様、少しの辛抱です。トリフォード卿に従ってください」
隣にはアニーが小走りについている。
「・・・いつもありがとう。ごめんなさい」
「いいえ。どうか楽にされてください。そのために私たちはいるのです」
腕の力を少し強めて耳元に囁くと、栗色の頭がこくりと小さく頷いた。
今日は私室から一番遠い帳簿保管室でことが起きた。
なので、移動距離が少し長いが耐えてもらう。
トリフォードは細心の注意を払いながら歩く。
揺さぶらないように。
人目にさらさないように。
大切に。
大切な、人だから。
当主が襟元を緩めながら本館へ戻ってきたときは、ナタリア夫人を目指しているしるしだ。
使用人たちの間で暗黙の了解が出来上がるまで時間はかからなかった。
スイッチが入ってしまった彼を止めることは誰にもできない。
逃がすことも、隠すことも考えた。
しかしローレンス・ウェズリーは絶対君主だ。
背後に大公閣下がいる限り、逆らえない。
ならせめて、事後に気を配ろうとアニーと手順を決めた。
当主が現れたら、アニーとトリフォード以外は現場周辺から全員撤収。
ことが終わり次第、トリフォードは夫人を毛布で包みなるべく早く私室へお連れする。
侍女たちは浴室で待機、手早く介添えをして気持ちと身体を解してもらう。
ふがいない自分たちの、せめてもの詫びだった。
寝室まで運び込んだ後、侍女たちに任せて廊下へ出ると壁に背を向け、思わずため息をついてしまった。
「いつまで続くんだ・・・」
この惨い状況は。
このひと月ばかりの間、何度、あの方を抱き上げて運んだだろう。
腕の中に、まだ感触が残っている。
剣の腕前はそれなりだと言うだけあり、とてもよく鍛えられた身体だと思う。
だけど骨格は細く、肩幅も普通の令嬢と変わらない。
存在感と相反する軽さと頼りなさに驚かされる。
彼女は、普通の女性なのだ。
けっして慣れることのない衝動的な交わりと道具のような扱われ方に、いつも事後は呆然としている。
そんな彼女を毛布で包むたびに、腕に囲い込むたびに、胸の奥がうずく。
自分は、どうしてこんな残酷なことを止められないのかと。
あの方が、壊れてしまうことを想像するだけで血の気が引く。
『借金を一括返済するためいずれはもっと条件の悪い結婚をするつもりだったから、大丈夫』
覚悟を決めてこの婚姻を受けたのだと、ダドリー領から王都を目指す道中で笑っていた。
そうは言っても、まだ二十歳の生娘だったのだ。
覚悟があるから耐えられるというものではない。
こんな日々は予想していなかっただろう。
心身ともにもう限界に来ているはずだ。
何か打開策はないのか。
トリフォードは思案する。
ここのところ気になるのは、ローレンス・ウェズリーの視線だ。
すれ違うたびに、奇妙なまなざしで自分を見る。
何かを探るような。
そして、挑むような。
思えば、初めての事件の時もそうだった。
彼は、襟のボタンを外しながら夫人の執務室へ足音も荒々しくやって来た時、応対に出た執事ではなく、扉を守る自分を睨んだ。
そして欲を満たして部屋から出た時、アニーの名を呼んで介添えを指示しながらも、視線はまたもやこちらに向いていた。
その目は。
満足げに見えた。
しかし。
よくよく考えると、あれは。
「まさか・・・」
あの男は。
「なんて、くだらない・・・」
ぎり、と奥歯をかみしめる。
「俺の主は・・・」
心を、決めた。
人は、慣れる生き物だ。
ナタリアはしみじみ思う。
いい加減、この状況に慣れた。
予測のつかないローレンスの奇行に最初は翻弄され心身ともにかなり疲労していたが、回数を重ねると犬に過剰にじゃれらつかれているだけと思えてきたのは、二十歳の女としてどうなのだろうか。
慣れてきたのは使用人たちも同じで、待機・撤収・清拭の手際の良さはもはや職人技だ。
そして、トリフォードがいついかなる時も必ず律儀に抱き上げて私室まで運んでくれるので、それを陰ながら見守る侍女たちの間で彼の好感度はうなぎのぼりの天井知らずだ。
身体に直接触れないように丁寧にかつ手際よく毛布に包んでから抱き上げるところと、大股に歩いているのにナタリアは全く揺らさないよう細心の注意を払っているところがツボらしい。
「ほんとうに・・・素敵ですよね、トリフォード卿。私たちの思い描く騎士そのものって感じで」
部屋係の一人、ローラが両手を合わせてうっとりと宙を見つめる。
「まあねえ・・・。毎度毎度頭が下がるわ」
「今とてもとても、トリフォード卿みたいな男性が主人公の恋愛小説読みたいです!」
一緒にうっとりしているのは食堂担当のデイジー。
彼女は、本を一冊抱きしめて悶えていた。
「その本はお気に召したのかしら」
「はい、それはもう。ナタリア様、ありがとうございます」
「みんなに喜んでもらえたなら、この部屋を改造してみた甲斐があったわ」
ぐるりと全体を見回してナタリアは笑う。
福利厚生の一環で、使用人たちの食堂の横にあった倉庫を改造して彼らのための図書室を作った。ここの人たちは識字率が高いので、娯楽に成り得るだろう。
蔵書は商人や義姉の実家のレドブル伯に頼んで中古の本を仕入れ、平易な文章で書かれた紀行文、地理歴史書、科学、図鑑類、辞書などの知識書を三割、残り七割は読み物だ。使用人は女性のほうが多いので、恋愛小説を豊富にしてみたらかなり評判が良い。
いつでも入室可で自室へ持ちこんでも良いことにしたので、この点も喜ばれている。
おかげで、侍女たちとの距離もかなり縮まった。
男性たちもなんだかんだ言ってこっそり読んでいるようだ。
「恋愛小説みたいねえ・・・」
ナタリアの今の状況はどちらかというと官能小説。
それも、肉弾戦に次ぐ肉弾戦の。
つい己を自虐的に例えたところで、あることが頭に浮かんだ。
「そういえば」
ローラを振り返ってナタリアは言った。
「ねえ、午後になったら手紙を一通、出したいの」
「はい、お任せください」
図書室を出ながら、ナタリアは考える。
もういい加減、次の一手を繰り出してもよいころだと。
その夜のことだった。
寝室で眠っていると、何らかの気配で目が覚める。
髪に触れられた気がした。
「だれ・・・」
つぶやいて寝返りを打つと、唇がふさがれた。
口の中に広がる、酒の匂いと葉巻の味。
「う・・・」
不快で眉を寄せる。
「シャーーーー」
そばで寝ていた猫が驚いて威嚇した。
「うるさい」
くぐもった声と同時にばしっと音がする。
「ティム!」
完全に覚醒し後を追おうと起き上がったが、肩を強くつかまれ、ベッドに沈められた。
「タリア」
抑え込んだその男は、ベッドから手荒に落とされた猫にも熟睡していたナタリアにもおかまいなしで、ことを進め始めた。
いつものように乱暴に脱がされながら怒りがこみあげてくる。
こんな深夜に。
寝込みを襲うなんて。
今夜は遊び仲間とパーティへ出かけたはずだ。
酔っ払ったついでにやりたくなったのだろう。
反撃したいのを懸命にこらえながら、首を巡らせて猫を探す。
「・・・にぃ」
ローレンスがバサバサと服を脱ぎ始める音に紛れて、小さな声が聞こえた。
「・・・ティム」
ほっと息をつく。
窓際に小さなテーブルセットがあり、その椅子に厚手のひざ掛けを置いている。
薄明りに見えるもそもそ動く毛玉から、どうやらそこに避難したことがわかり、少し安心した。
どうか、無事でいて。
本当は今すぐ駆け寄ってけがの有無を確認したいが、無理だ。
仲間たちとご機嫌に飲んだ酒が、早くローレンスを昏倒させてくれることを願いながら、好きにさせる。
早く終われ。
早く。
うつぶせにされ揺さぶられながら心の中で悪態をついていたら、感極まったローレンスが耳にささやいた。
「・・・ああ、マリア」
・・・マリア?
タリアではなく、マリアと、今、はっきり言った。
「ああ、良い。すごくいい。最高だマリア」
その後もローレンスはその名を呼び続ける。
そ う い う こ と か。
霧が晴れたような心地だ。
なぜ、最初に『タリア』と呼びたいと言ったのか。
全ては、とっさの言い間違いをごまかすために考え付いたまやかしの愛称。
…本当に、この男は。
頭と体の中で色々な何かがぐるぐると回る。
どうしても芯が反応してしまう快感と。
わずかに育ってしまった情と。
己に対する情けなさと。
この状況に対する憤りと。
もう何もかもごちゃごちゃだ。
でも、涙は出ない。
相変わらず間違えていることに気づかない酔っぱらいは、お気楽に『マリア』へ愛をささやきながら己の快楽にだけ没頭している。
「マリア、マリア、マリア…」
酒の神に感謝しよう。
ようやく糸口をつかんだ。
ようやく、吹っ切れた。
よほどの深酒だったのか、ローレンスはいつもより早くナタリアを開放し、そのまま熟睡した。
男がいびきをかき始めるなり、ナタリアはベッドから飛び降りてガウンを羽織り、椅子の上に丸まっていたティムをひざ掛けごと抱き上げ寝室を出る。
「なー・・・」
私室で膝におろし、全身くまなく調べる。
手足をさわさわと触られて、彼はご機嫌だった。
「骨折は…していない」
ほうと安どのため息をついた。
「まったく…」
浴室で手早く身体を拭いて、乗馬服に着替える。
窓の外を見ると東の空が白み始めている。
もう、馬丁たちは仕事を始めているだろう。
ティムを連れて部屋を出た。
「おはようございます、奥様。こんな早くにどうされました」
案の定、獣医師のスコットがすでに厩舎にいた。
様子の気になる馬がいると数日前に聞いていたので、彼ならもう仕事を始めているだろうと思ったのだ。
「ティムがね。ローレンス様に手荒に扱われてしまったの。一応、私も確認したけれど、あなたにきちんと診察してもらいたくて」
厩舎へ頻繁に顔を出すうちにすっかり親しくなった老医師は、話を聞くなり、真剣な顔になり猫を受け取る。
「そうですか・・・。診た感じでは大丈夫そうですが、ちょっと様子を見るためにも数刻私が預かりましょう」
彼の腕の中で、ティムは尻尾を振った。
小さなころから世話をしてくれた医師に喉を鳴らす様子に、心から安心する。
「ありがとう。お願いね」
深く息をついて、馬たちを眺める。
「この中で、早駆けしても大丈夫な子はいるかしら」
今いる区画は騎士団の馬ではなく、ローレンスのものだ。
「そうですね。ブライトが走りたそうにしていますが・・・」
当主はさほど馬に関心がない。
単に所有しているだけなので馬丁たちが適度に調教していたが、最近ではナタリアが相手をしていた。
「なら、ちょっと借りるわ」
手綱と鞍を取り付け、連れ出す。
この馬は若い。
思いっきり走らせてもらえることを察知したのか嬉しそうにいなないた。
「奥様、お供は・・・」
「うん、ちょっと湖から上る朝日が見たいだけなの。あそこなら開けていて治安も悪くないし危険はないわ。どうか一人で行かせて」
取り繕うけれど、少し、頬がこわばるのを隠せない。
これ以上、ここにいたら崩れてしまいそうだ。
「・・・わかりました。朝食前にはお戻りください。皆が心配します」
「ええ、もちろんよ」
すぐさまブライトにまたがる。
「感謝します、先生」
「・・・今朝の朝日は、きっと良い眺めでしょう」
「ええ」
もう、言葉が思いつかない。
馬首を巡らせ、裏門を目指した。
郊外へ出た瞬間、ブライトに合図を出した。
彼は待ってましたとばかりに力強い走りを見せる。
景色がナタリアの周りをどんどん過ぎていく。
早駆けなんてかわいいものじゃない。
疾走だ。
ナタリアはたたきつけられるような強い風を全身に受けながら、からだの中でどんどん沸きあがる感情と戦っていた。
ティム。
ローレンス。
大公。
グラハム。
ダドリー。
マリア。
それから、それから・・・。
熱い。
どんなに風が冷たくても、おさまらない。
頭も胸も腹も、熱くて熱くて。
もう、どうしたらいいかわからない。
馬と人と一つになりながら、ひたすら東を目指して木立の中を走り続けると、いきなり視界が開けた。
「みずうみ・・・」
黄金色に染まった草原、朝もやの湧き上がる湖、そして、桃色に染まり始めた空。
鳥たちの鳴き声。
それから。
どうやって馬から降りたのか覚えていない。
気が付いたら、水辺に両膝をついていた。
「うわーーーーーーーーーーっ」
言葉になんて、できない。
ただただ、叫び続けた。
足場を固めてから反撃に出ようと思ったのは間違っていたのか。
いたずらに時を過ごしてしまったのじゃないか。
本当は戦うのが怖くて、理由をつけて決断を遅らせたのでは。
もう、何もかも遅いのかもしれない。
私は、ただの身代わりにされただけだ。
次から次へと不安と後悔が押し寄せてくる。
どうしよう。
どうしたらいい。
怖い。
そして、とてもとても腹が立つ。
何もかもに。
「もう、いやーーーーーー」
叫んで、叫んで、声が枯れても叫んだ。
自分が何をしたいかわからない。
息の仕方もわからない。
「・・・ナタリア様」
ふいに耳元で低い声がして。
背後から肩を大きな布にくるまれ、強い力に囲まれた。
「・・・っ」
驚いて抵抗しようとしたが、びくともしない。
拘束を解こうと全身を使ってもがいたら、荒い呼吸音とともに、とぎれとぎれの声が聞こえた。
「私、です、ナタリア・・・様」
前に回された腕は、よく見ればウェズリーの騎士の制服だった。
「トリフォード、です」
それに、覚えのある、におい。
「・・・トリフォード・・・・。なぜ・・・・」
全身の力が抜けて、すとんと座り込んだ。
すると、ナタリアの体に両腕を回したまま、トリフォードも地面に腰を下ろす。
「ナタリア様が…。ブライトと、心中するのでは、ないかって・・・スコット先生が・・・」
荒い息の合間に、ぽつりぽつりと彼は答えた。
「え・・・」
「慌てて、追いかけました」
背中に当たるトリフォードの胸は、せわしなく動いている。
彼のマントにくるまれてはいるけれど、背後からしっかり抱きしめられた状態だ。
長い足はナタリアの両側に投げ出されていた。
それでもかなり身長差があるので、この姿勢でも頭一つ高い。
まるで、トリフォードという箱に閉じ込められているかのよう。
「ご無事で、本当によかった・・・」
ぽたりと、彼の汗が膝の上に落ちて染みを作る。
「ほんとうに、よかった・・・」
心からの言葉。
強い腕。
優しい声。
あたたかな、胸。
凍えたナタリアの身体に、ゆっくりトリフォードの存在が広がっていった。
「・・・・っ」
ぼたぼたと目から涙が出た。
「・・・ごめん、なさい。しんぱいかけて」
唇が震えて、うまく言葉をつむげない。
「みっともないところ、みせて・・・」
すると、つむじに、こめかみに、やわかな感触を受けた。
「こちらこそ、すみません。今、私がしていることは、お仕えする方に対する態度ではありません」
そう言いながらも、ナタリアの頭にそっと頬を寄せた。
背中にも肩にも首にも頭にも、髪でさえも。
トリフォードの熱がゆっくりしみこんでいく。
「我々は、ずっと心配でした、あなたがあまりにも完璧すぎて」
腕の力を一瞬きゅっと強められて、ナタリアの涙はますますあふれた。
「家族のために、領民のために耐えて耐えて、侯爵の横暴にも耐えて、私たちにも泣き言一つ言わないで、いつも冷静で」
視野がぼやけて、何も見えない。
「いつか、貴方が壊れてしまうのではないかと、不安になっていました」
誰かに抱きしめられるのは、こんなにも心地よいものだったのか。
「トリフォード、卿・・・」
「アベルです。どうかアベルと呼んでください」
「アベル・・・」
「はい」
「アベル、アベル、アベル…っ」
背中を預けて泣き喚いた。
「くやしいの」
「ええ」
「くるしいの」
「ええ」
「みっともないのも、いやなの・・・っ」
「みっともなくないです。あなたは、頑張りすぎです」
アベルの言葉に、熱に、力に、どろどろに溶けていく。
「ちがう、私は、まちがえたの・・・」
「そんなことありません。いつだって最善を尽くしてた」
背後からいくつも頭に唇を落とされて、あやすように軽くゆすられて、何もかも吐き出してしまえと言われた気がした。
「わからない・・・」
甘やかされている。
「もう、どうしたらいいのか、わからない・・・」
甘やかされて、ちいさなこどものようなことを言ってしまう。
「そうですか・・・・」
耳元に温かい息がかかる。
「なら、このまま二人で東を目指しますか?」
「え・・・」
振り返ると、穏やかな顔が見下ろしていた。
「ずっとずっと進めば、国境を抜けられます」
少しいたずらっぽくアベルは笑う。
「私と、逃げてしまうのはどうでしょう」
なんて、甘い誘惑。
「ナタリア様と二人でなら、どこででも生きていけそうな気がします」
二人でなら。
この腕は、決して自分を傷つけない。
そんな気がする。
でも。
「・・・ありがとう」
うれしい。
私とならと、言ってくれたこと。
きっと忘れない。
ずっと、いつまでもおぼえている。
「でも」
精悍な顔にうかぶのは、すがすがしいほど綺麗な笑み。
「はい」
断られることを、彼は最初から分かっていた。
「ぜひとも一発、ローレンスを殴りたいの」
「ぷふっ」
アベルは噴出した。
「さすがに、その一言は予想していなかったです」
「そう?」
「ええ」
笑っていても、優しい腕は離れない。
「本当は、一発じゃ足りないと思ってる」
「そうでしょうとも」
気が付いたら、涙は止まっていた。
「・・・アベル」
「はい」
「好きよ、ティムの次くらいに」
「え、ティムですか?ティムの次か・・・」
困惑した表情でつぶやく彼を、じっと見つめた。
心根そのままの綺麗な顔だ。
茶色の長いまつげに縁どられた、夜の闇のような黒い瞳。
でもそれは、とてもやさしくて暖かい。
こうして細心の注意を払ってマントで包み込んでくれるように。
ついさっきの夜はつらかった。
だけど、もう、恐れるほどではなくなっている。
優しい夜もあると知ったから。
少し胸の奥がちりっと痛んだ。
彼は、大人だ。
ずっとずっと大人だ。
それに比べて自分はなんてちっぽけだろう。
「ナタリア様、朝日が上がりましたよ」
綺麗に晴れ上がった空の端から、朝日がじわじわと昇っていく。
湖から渡ってきた風が優しくほおを撫でた。
さわさわと枯草が触れ合う音。
くるるーという鴨の鳴き声が聞こえた。
「ああ、渡り鳥がもう来ていたのですね。気が付かなかったな」
秋が過ぎて、もう冬がそこまで来ている。
でも、ここは暖かくて、居心地がよくて。
「アベル」
「はい」
「ありがとう」
「どういたしまして」
涙はすっかり乾いた。
心に積もった重いものをすべて吐き出して、今は嘘みたいにすっきりしている。
はやく帰らないとな、と思う。
きっと、屋敷ではスコット医師をはじめ、いろいろな人が気をもんでいるだろう。
でも、もうしばらく。
こうしていたい。
背中に、優しい鼓動を感じながら。
「今日も、良い天気になりそうですね」
「ええ」
なんて綺麗な朝だろう。
-つづく-
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