『うまい話には裏がある -3-』
朝やけが青みがかったところで、野原を自由に散策していたブライトを捕まえて早駆けした。
なんとか朝食には間に合ったが、アニーたち侍女とスコット医師にはかなり心配をかけてしまった。
「・・・ご無事でようございました」
アニーに涙ぐまれて、反省した。
ちなみに、ローレンスは二日酔いで目覚めたもののナタリアの不在に気づかないまま、いつものように浴室で身を清め、さっそうと東の館へ戻っていったらしい。
本当に、ばかばかしいな。
アニーは言い辛そうに報告したが、心は凪いでいた。
朝食を終えて執務室で食料や備品の発注書の確認をしていると、来客の知らせがきたので玄関の車寄せまで降りる。
「お久しぶりです、ナタリア様」
赤みがかった短い金髪の上品なスーツ姿の青年が洗練された動きでゆっくり礼をした。
出迎えた侍女たちはあらわになった端正な顔にくぎ付けで、魂を抜かれそうだ。
執事のセロンですら一瞬見とれてしまったくらい、リロイの美貌は身なりを変えても破壊力がある。
「リロイ・・・。よかった、元気そうで」
ダドリー領を出てもうすぐ二か月近くになる。
道中、旅人に偽装しつかず離れず後を追ってくれた。
ウェズリー侯爵家として同行したトリフォードたちがずっと親切だったため助けを求める場面はなかったが、リロイがどこかにいると思えるのはとても心強かった。
ナタリアがウェズリーの本邸に入ってからは、義姉の実家であるレドルブ伯爵家で従僕として学んでいるとは聞いていたが、ずっと気になっていたので、こうして無事な姿を直接見られてうれしい。
「これらは依頼された品ですが、どうしましょうか」
リロイが背後を振り返ると、馬車からトランクと木箱が続々とおろされている。
「ああ・・・。それね」
にんまりとナタリアは笑った。
「さすがは王太子妃さま。仕事が早いわ。まさかお願いした翌日にきっちりそろえてくださるなんて」
「あんな面白い依頼状、王太子妃さまは爆笑でしたよ」
リロイの背後からひょっこり小柄な女性が姿を現した。
「パール様、お久しゅうございます。お元気そうで何よりです」
メアリー・パール子爵夫人。
上品に結い上げた黒髪と丸眼鏡が印象的なその人は、王太子夫妻の宮殿図書館で最も優秀な司書として名を馳せている。
「ふふふ、ナタリア様。わたくしが代表して伺うことになりましたが、権利を得るのに王太子妃様とチェスで本気の勝負をしてまいりましたの。いやあ、まさかわたくしが王太子妃様を打ち負かせる日がこようとは…。まさに、神の思し召しですね」
リスのように真っ黒で大きな瞳をきらきらと輝かせ、至極満足そうだ。
「お持ちしました荷の取り扱い説明の一切、どうぞわたくしにお任せくださいな」
そしてナタリアの両手をとって握りしめ、うっとりとつぶやいた。
「おお、神よ、感謝します…」
すっかり自分の世界に入ってしまったパール夫人の背後で、リロイはどこかいたたまれない顔をしている。
・・・ということは、すべてを知っているということか。
この騒動に巻き込まれた彼を気の毒に思うが、この件だけは外せない。
通過儀礼と思って耐えてもらいたい。
「頼りにしています、パール様」
パール夫人の背中に手を回し、ホールへ案内する。
さあ、反撃の準備を始めよう。
「まさか、王太子妃様の司書様がいらっしゃるとは思いませんでした」
アニーは夢見がちな様子で銀の盆を抱きしめた。
リロイは荷下ろしに立ち会ったら帰ったが、パール夫人は西の館に数日間滞在の予定だ。
名目上は、ナタリアおよび使用人たちの図書の整備。
商人から取り寄せた本を大量に運んでくれている。
なんといっても今回は王太子妃経由での配本。
選りすぐりである。
その中にはアニーの好きな作家の新刊があったのでとても喜んでいた。
ほかの使用人たちも興味津々で、屋敷内は一気に明るい空気に満ちていく。
そんな彼らの姿に顔をほころばせながら、ナタリアは頭の片隅で数刻前のことを思い出していた。
『どうしても、やらねばならないのですか、こんなこと』
ナタリアの図書室の書架の陰でリロイは真剣な声で問うた。
承服しがたいことだろうと思う。
彼は、五年近くの年月を家族のように暮らしてきたのだ。
しかし。
「いまさらよ」
そう答えると、くしゃっと眉をゆがめた。
「そんな顔しないで、リロイ」
思わず、手を伸ばして頭を撫でた。
「せっかくの綺麗な髪が、染めたせいで荒れちゃったわね」
いつもと手触りが違うことのほうが悲しい。
「ナタリア様・・・」
覆いかぶさるように抱きしめられた。
「リロイ」
ぽん、ぽん、と背中を掌で軽くたたく。
この子は、時々、ルパートの真似をしてこうして抱きついてきた。
最初は自分とあまり身長が変わらなかったのに、今はこんなにも違う。
肩も、背も、腕も、すっかり大人になったのだなと感慨深く思う。
頼もしい、大人になった。
「ありがとう、リロイ。あなたのおかげで正気に戻れた気がする」
「・・・なら」
顔をあげ、ぱあと、明るい表情を浮かべたリロイに、言葉を続ける。
「ああ、ごめんなさい。計画は中止しないわ。そういうことじゃないの」
すぐにまた、しゅんと眉を寄せる彼が、ちょっと犬みたいでかわいいなと笑いがこみあげてきた。
「わたし、明け方までどん底だったの。ちょっと死んでもいいかもって思ってた」
「ナタリア様」
破格の報酬をもらった契約結婚だとはいえ、ローレンスのぞんざいな扱いにモノになった気分だった。
だけど、どうだろう。
今朝はトリフォードが。
今は、リロイが。
心から抱きしめてくれた。
そして、アニーをはじめ多くの使用人たちが心配してくれている。
これほど運にめぐまれた女はいるだろうか。
「馬鹿だった。私はすっかりいじけてしまっていたのね」
今度は、ナタリアが腕を伸ばしリロイを抱きしめた。
「大丈夫。これはね、私の卒業試験」
身体に、リロイの心臓の音が響く。
「きっちりカタをつけるから。安心して」
腹の底から、しっかりと声を出して誓う。
「私は、負けない」
すると、はあーっとため息が落ちてきた。
「・・・ナタリア様らしいというか・・・なんというか・・・」
「ちょっ・・・」
すっかり脱力して寄りかかってきた身体をあわてて抱きとめる。
筋肉が、重い。
「俺は、負けました。完敗です。だから、あいつをこてんぱんにしてくださいね」
「うん。任せといて」
ふふ、とナタリアは笑う。
「私、強いから」
はーっと、もう一度ため息が落ちた。
「ハイ、ソウデスネ・・・」
なぜ、そこで棒読み。
リロイがナタリア・ルツ・ダドリー伯爵令嬢の存在を知ったのは、王宮で行われたデビュタントの時だった。
その日にデビューする令嬢たちが紹介と国王夫妻への謁見のために会場前方に並ばされた時、ひときわ目立つ少女がいた。
磨かれたマホガニー材のような深くて濃い艶やかな髪、そしてきらきらと明るく輝く琥珀色の眼、そしてつやつやと綺麗に焼けた小麦色の頬。
そしてなにより顔以外をきっちりと隠した濃い青のシンプルなドレス。
すらりとした身体がより強調され、誰よりもきれいだった。
普通、デビュタントを迎える少女たちは淡いふんわりとしたシルエットで下品にならないぎりぎりまで肌を露出する。
それが、夜会の女性の衣装の基本であり、大人の仲間入りをしたしるしでもあるからだ。
その常識と流行を覆した衣装に眉を顰める者もいたが、清々しさがとてもいいなと、リロイは一緒に出席していた家族たちと眺めながら感じた。
まるで、首の長い鳥が優雅に舞い降りたようだ。
ついつい、目で追ってしまう。
そして、さらに印象深い出来事が起きた。
さてダンスが始まろうかという時になって、いきなり雷が宮殿に落ちた。
正確には近くの離宮だったため、会場は問題なかったのだが、広い空間衝撃音がもろに鳴り響き、出席者たちは動揺して右往左往。
とてもデビュタントどころではなくなった。
失神する令嬢もいる中、彼女はまず手にしていたワインを飲み干し、落ち着き払って料理のテーブルへ進んだのだ。
まったく手付かずの豪華な料理の前でしばらく腕組みをして考え込んだ後、皿を手に取り、おもむろに盛り付け始めた。
信じられない。
彼女はどんなに雷光がきらめき轟音が鳴り響いても意に介さず、隅のテーブルセットに料理を並べてちょこんと椅子に座り、もくもくと食べ始めたのだ。
しかもそこへ彼女のエスコート役をしていた兄のトーマス・ダドリーがひょっこりやってきて同じように皿に料理を盛って座り、更には正装した第四団騎士団長ダン・ベインズも椅子を運んできて食べだした。
どう見ても、普通の、家族の晩餐である。
なんなんだ、この人たち。
異様な光景だ。
でも、三人の肝の座りっぷりがすごく素敵に見えた。
そして、彼らの仲間になれたらどんなに楽しいだろう。
いつか、ダドリー領へ行ってみたい。
小さな願いと希望を心の奥に刻み付ける。
あの、青いドレスの少女に恋をした。
ナタリア・ルツ・ダドリーに。
緻密なカッティングが施された、青いダイヤモンド。
わずかな光を浴びただけできらきらと輝く。
なんて美しい色だろう。
「まるで、あなたの瞳のようね。ティム」
囁くと、ナタリアの頬にすりっと額を摺り寄せられた。
柔らかな毛並みが気持ちがよくて、つい微笑んでしまう。
厩舎生まれのティムは、とても美しい猫だ。
四本の足には白い靴下を履き眉間から鼻筋を通ってお腹まで白く、額から耳そして背中としっぽを灰色に色づけされた、いわゆるタキシード猫やハチワレ猫と呼ばれる柄で、目は白猫の血が強いのか深い海のように青い。
「素敵なあなたには、この首輪がよく似合うと思うの。つけてみましょうね」
額を撫でながら、すらりとした首に青い皮の首輪を装着した。
ステキ、という言葉が理解できるのか、ティムは得意気な表情を浮かべる。
長い尻尾がご機嫌にぱたりぱたりと揺れた。
「うん。本当によく似合うわ」
頬に手をやり、うっとりと見つめる。
「・・・ナタリア様」
背後から、おそるおそるアニーが声をかけてきた。
「なあに」
「その首輪・・・。本気ですか」
「ええ。これほどの使い道はないでしょう」
「ですが・・・」
言いたいことはよくわかる。
「ティムが気に入ったなら、なおさら良いのよ」
ぴんとしっぽを立てて上品に前足を揃え、『オレ、カッコイイ』のオーラ全開で座っている猫の首には。
ローレンスから贈られた大きなブルーダイヤモンドの指輪が革のベルトに通されて、きらきらと輝いていた。
「猫にダイヤモンド・・・」
「安心して、今日だけだから」
ずっとつけていたら、さすがにティムが誘拐されかねない。
「今日は特別なのよ、ねえ」
こんどは、『トクベツ』に反応したらしいティムが「にゃあ」と応える。
「さあ、行きましょうか。お散歩に」
ティムを抱き上げると、ナタリアは部屋の出口へ向かう。
「アニーたちは休んで。ちょっとティムに外の空気を吸わせてあげるだけだからトリフォード卿で十分よ」
「承知しました。お気を付けください」
ほかの部屋係たちも頭を下げた。
「ありがとう」
今日は良い天気だ。
秋の空は高く、空気も澄んでいる。
色づき始めた木々の葉はもうすぐ冬がやってくることを知らせているが、故郷に比べると王都の秋はかわいらしいものだ。
ティムを抱いたまま本邸近くの庭園を歩きながら、風を楽しむ。
「さて・・・」
東の区域に差し掛かったところで、ナタリアはティムの額にちゅっと音を立てて口づけた。
そして。
「あらあら、てぃむ、どうしたの~」
言いながら、彼を地面へ開放した。
華麗に着地したティムは一度ナタリアを振り返り、にゃあ、と一声鳴くと颯爽と茂みの中へ突進していく。
「あらあら、てぃむ、いかないで~」
ゆるく手を伸ばしてゆっくり追いかける。
「ぷっ・・・」
背後から、こらえきれなくて吐き出された息の音が聞こえた。
「・・・笑わないの、トリフォード卿」
「いや・・・。ナタリア様の、そのあからさまにやる気のない台詞がどうにも・・・」
そう。
演技力はあるほうだと自負しているが、やる気はない。
これは、周囲に対する儀礼だ。
「ああ~、てぃむ、どこにいったのかしら~」
一応、続けることに意味がある。
「こまったわ~」
そう言いながら、ずんずんと突き進んだ。
東の園の中心へ向かって。
「お待ちください、奥様」
ほどなくしてわらわらと、騎士や侍女が生垣の中から姿を現す。
「誠に申し訳ございませんが、どうか、こちらから先はご遠慮ください」
これが、彼らの仕事だと承知している。
東の園へは立ち入り禁止。
今は特に。
「ごめんなさい、ここに入ってはいけないことはわかっているのだけど…」
少し、深刻そうな顔をしてみせる。
「実は・・・。猫の首に、ローレンス様から頂いた婚約指輪をかけてしまったの」
一同、ひっと息をのんだ。
ここに勤める者ならおそらく全員知っている。
ローレンス・ウェズリーがナタリアを出迎えるにあたって、仰々しいほど大きなブルーダイヤモンドの指輪をあつらえたことを。
それを、よりによって猫の首に鈴の代わりにつけた?
「軽い、冗談のつもりだったのよ」
こてんと首を傾げる女主人に、一気に周囲の温度が下がる。
正気か、この女。
使用人たちが一生馬車馬になっても手に入らない金額の石を猫の首にかけやがった・・・!
・・・と、内心思っていることだろう。
ナタリアは腹の中でにやりと笑った。
東の別邸に詰めている使用人たちはローレンスおよび家令のグラハムの支配下にある。
あまり好意的でない彼らにはとりあえず、頭の悪い田舎の伯爵令嬢という認識で十分だ。
と、考えていたところで、なーおう、なーおうという猫の鳴き声が聞こえた。
「あら・・・。あれはティムの声かもしれないわ」
正確には、雄猫が縄張り争いの時にあげる鬨の声だ。
『やあやあ我こそは、この地域最高の雄猫である』と、古式ゆかしき猫の口上を述べている。
普段は優しい声で甘えるティムだが、やるときはやる。
雄々しく、猛々しく、吠えている。
もちろん相手は…。
「ああ、ティム、今行くわ!」
長いスカートの裾を翻し、ナタリアは声の聞こえる方角に向かって駆けだした。
もちろん、本日の足元は走りやすい編み上げブーツを仕込んである。
「お待ちください、奥様・・・!」
誰が待つか。
ダドリーで鍛えた脚力で走る。
慌てた声たちを背後に捨てて、迷路のように入り組んだ植え込みを突き進むと、急に開けた場所に出た。
目の前には優雅な装飾が施されたガゼボ。
白いテーブルセットと、最高級の食器で構成されたアフタヌーンティー。
そして。
そのテーブルの端に灰色の滑らかな毛並みの猫が、四肢をつっぱり、尻尾を膨らませて声を上げてた。
『おうおう、オマエ。この前のオトシマエをつけてもらおうじゃねえか、ああん?』
きっと、彼ならそう言っているだろう。
なぜなら、呪詛のように続くティムの声の先には。
ローレンス・ウェズリーがいるから。
「あら・・・。ごめんなさい。私の猫が失礼を」
ちょっと息を切らしているのも、髪が乱れているのも演技。
だけど、これだけは。
驚いた顔だけは素だった。
「お邪魔・・・してしまい申し訳ありません」
ここに、ローレンスがいるのは想定内。
膝の上に女性が乗っているのも、もちろん。
そして、挙式の折に見かけた女性だというのも、もちろん。
だけど。
これだけは、想定外だ。
「ああ・・・」
ローレンスの膝の上に乗ったままの、薄い桃色のドレスの女性が小さく声を上げた。
よりによって、この方だとは思わなかった。
よりによって。
「お初にお目にかかります。ジャック・ダドリー伯爵の娘、ナタリアです」
すかさず、ナタリアは最高の女性に対する挨拶をローレンスたちに向けて行った。
腰を折り、低く頭を下げ、地面を見つめて深く呼吸をする。
落ち着け。
何事もなかったかのように、なにかも心得ているふりをしろ。
何度も何度も己に言い聞かせる。
「この度は、お二人がおくつろぎのところ、大変失礼をしました」
ナタリア・ルツ・ダドリーは、偽装結婚のためにこのウェズリーに滞在している。
そう、言われているはず。
ならば、ナタリアが彼女より下位だ。
「・・・どうか、頭をお上げください、ナタリア様」
か細い、頼りない声が耳に届く。
もう一度、深く息を吸ってから姿勢を元に戻した。
視線を上げた先には、寄り添う二人。
いや。
ローレンスは膝に乗せた女性の、お腹に手をやったまま彫像のように固まっている。
「あの、はじめまして・・・。ナタリア様。マリア・ヒックスと申します」
マリア。
その名前を聞いたのは初めてではない。
ローレンスが微動だにしないので、気の毒なことに彼女は困惑した表情を浮かべて膝に乗せられたまま自己紹介をするという喜劇が優雅な庭園で展開されていく。
ヒックス子爵。
彼は資産がないのに女癖が悪いことで有名だ。
聞いた瞬間にナタリアの頭の中で情報がざっと流れていく。
「いや」
ここにきて、ようやくローレンスの乾いた声が耳にようやく届いた。
「もうすぐ手続きが完了する。これからはマリア・バンクス伯爵令嬢だ」
なるほど。
ウェズリーの分家筋のバンクスの養女に経歴を書き換えたか。
それよりも。
重要なことはそこじゃない。
マリア・ヒックス改め、マリア・バンクス伯爵令嬢は。
とても美しい。
長く波打つ金色の髪。
ブルーダイヤモンドのような瞳。
白くて小さな顔に、細くて長い優美な手足。
春の妖精が地上に舞い降りたなら、このような姿だろう。
ただ。
人の姿になって舞い降りたその妖精は、あまりにも若い。
いや、幼いのだ。
骨格から推測しておそらく、十三歳か十四歳。
なのに、マリアのお腹は膨らんでいる。
ああ。
ナタリアは心の中で深くため息をついた。
これが、パンドラの箱の中身か。
身分が低いだけなら、ウェズリーにとって造作もないことだ。
いくらでもやりようがある。
しかし、この国の法で結婚は十六歳からと決まっている。
これだけは、どうにもできなかった。
おそらく、彼女はすでに王都で知られた存在なのだろう。
しかし生まれてくる子供が男子ならば、ローレンス・ウェズリーの嫡子として届け出を出したい。
そのために多額の金を積んだ、偽装結婚。
誰もが知っていて、ナタリアだけが知らなかった、真実だった。
なああん、と舌っ足らずで甘えた声とともに柔らかな感触が足元でうごめいて、ナタリアは我に返る。
見下ろすと、ティムが目をキラキラさせて見ていた。
ピンクの鼻を小さくひくひくとうごめかせて、『ぼく、えらいでしょ』と訴えている。
たしかに。
今日一番の功労者はティムだ。
ふっと笑って抱き上げ、額にキスをする。
「ああ・・・。申し訳ありません。この子がいきなりやってきてさぞ驚かれたことでしょう」
腕の中でティムはがあごんがあごんと喉を振るわす。
「ナタリア・・・その猫の首」
ローレンスが地の這うような声で問うた。
「ああ、すみません。この子があまりにもハンサムなので、つい、鈴の代わりに『頂き物の』指輪をつけてみたくなったのです。あまりにも似合うので見惚れていたら、彼は退屈したらしく脱走してしまって。慌てましたわ」
偶然ですよ、と白々しく肩をすくめると、ご当主様は頬をぴくぴくとけいれんさせていた。
どうせ、茶番だ。
文句があるならここで今言ってみろと、ナタリアは開き直った。
ティムがここへ飛び込んできていきなり当主へ威嚇の声を上げた時、騎士たちは蹴りだそうとしたものの、首輪を見て躊躇しただろう。
無礼を働く忌々しい猫にタウンハウスが買えるような指輪が堂々と取り付けてある。
あからさまな、しるし。
当主の新妻の愛猫だという。
そうなると「うっかり殺してしまいました」と言うわけにはいかないのだ。
それは、ローレンスにしても同じこと。
己が国一番の宝石屋へ大々的に発注し、贈った指輪だ。
知らなかったではすまされない。
「あの・・・、ローレンス様」
おずおずと控えめな声に、我に返る。
「おろしてくださいませ」
マリアの困惑した顔がまた、愛らしい。
声も、まるで小鳥のように軽やかで庇護欲をそそる。
これは、ローレンスでなくとも骨抜きになるだろう。
「あ・・・ああ。」
ローレンスに支えられてマリアは地に足をつけて立つ。
なんて小柄な少女だろう。
だからこそ、妊娠している姿は痛々しく、異常だ。
「どうか、椅子にお座りください、ナタリア様」
しかも礼儀正しく、利発。
これからいくらでも違う可能性があっただろうにと惜しんでしまう。
「ありがとうございます。まずは、マリア様がお座りください」
あくまでも自分は雇われの身で、マリアのために存在することを態度で示す。
戸惑った様子だったがローレンスに小声で促され、うなずいた。
「お気遣いありがとうございます」
きちんと一礼して、ローレンスの隣に座った。
それを見届けてからナタリアが向かいに座ると、侍女たちが新しいティーカップを運んでくる。注がれたお茶は見た目が紅茶だったが、独特の香りがする。
「これはルイボスティーですね」
「はい、お医者様から勧められたので」
紅茶の成分の一部が妊婦によくないという話が最近出てきている。
「なるほど。体に良い成分が豊富ですものね。さすがはホーン先生」
ナタリアの言葉に、ローレンスがぎょっと目を見開く。
「ホーン先生をご存じですか」
純真なマリアの質問に、隣の男はだらだらと汗をかいている。
ナタリアがここで爆弾を落としたら一巻の終わりだ。
「はい。領地から王都まで馬を飛ばして挙式までこぎつけたので、疲れが出たのでしょうね。寝込んでしまったので診ていただきました」
さらりと、嘘をつく。
「まあ・・・。その後大丈夫ですか」
「ローレンス様のお気遣いのおかげで、もうすっかり元気です」
ナタリアはどすどすとローレンスの心臓に言葉の槍を突き刺す。
気遣いもなんも。
この坊ちゃんはやりたい放題だ。
後ろめたさはあるのか、彼はまさに借りてきた猫のようにおとなしい。
「そうなのですか、よかったです」
心から嬉しそうにマリアが微笑む。
そして、ちらりと隣を見上げローレンスへ尊敬のまなざしを送っている。
『さすがは、ローレンス様』と言う声が聞こえてきそうだ。
そこで、ナタリアは揺さぶりをかけてみた。
「そういえばマリア様こそ、体調を崩されていたようですね。大丈夫ですか?先日、東の館へ急がれるホーン先生をお見掛けしていたので心配していました」
平静を装い紅茶カップを手にした男は、すぐに動揺してかちゃんと倒す。
「あ・・・。その、それは・・・」
ぽっとマリアが顔を赤くして両手を頬に添える。
「あの・・・。その・・・ええと」
マリアはおろおろしているし、ローレンスは口をぱくぱくさせてまるで陸に打ち上げられた魚の状態だ。
・・・まさかと思うが、そのまさかなのか。
この鬼畜め。
ナタリアは頭痛を覚えた。
いや、ローレンスに対する強い殺意がずきずきと脳を圧迫する。
「あら、ごめんなさい、私ったら無粋なことを」
ほほほと口に手を当て空々しく笑い、貴族令嬢ぶってなんとかごまかした。
背後に並ぶ東の館の使用人たちの視線が痛い。
打ち手を間違えたのは認める。
今日はこれで引くとしよう。
「・・・まことにぶしつけですが、一つだけお聞かせください」
「はい」
「お子様の予定日はいつでしょう。実は、ローレンス様がマリア様を大切になさるあまり、私にはなかなか教えてくださらなくて」
姿勢を正し、真剣なまなざしでマリアに問う。
敵ではないと、この少女に認識してもらわねば。
・・・とはいえ、膝にティムを載せて背中を撫で続けている姿はいまいち格好がつかない。
「二月の、初めから半ばくらいだと、ホーン先生がおっしゃっていました」
目を伏せて、不自然に膨らんだお腹を愛し気にゆっくり撫でる。
長い金色のまつ毛に、笑みを浮かべた桜色の唇。
その様はあまりにも神々しく、宗教画の聖母そのものだ。
「そうですか。ずいぶん寒いころですね。ならば、お部屋を暖かくするための支度を抜かりなく手配いたします」
そして、ローレンスへ目を向ける。
「ところでローレンス様。今すぐにダドリーから山羊を数頭取り寄せて、邸内で飼育させていただきたいのですが」
「山羊だと?」
田舎の流儀をこの王都に持ち込むつもりなのかと眉を顰める男に、噛んで含めるように説明する。
「山羊の乳は母乳の代わりに使えます。私の母は多産ですが授乳があまり得意でないので、兄弟全員、山羊の世話になっています。特に私の一つ違いの弟のルパートは初乳以外山羊だったと言っても良いくらいの状態でしたが、騎士団でも指折りの体格に育ちました」
自分たちが世話になった品種とは別に、もともと崖に住んでいた野生の山羊と隣国の山羊を掛け合わせ、飼料も工夫してなかなか面白い品種を十数年前に作った。
その乳は領内の育児の助けになったので自信をもって提案できる。
「ほう・・・」
最初は胡散臭げにナタリアの話を聞いていたローレンスだが、だんだん興味がわいてきたようだ。
貴族の子は、生まれにくく育たない。
貴種間で濃密に交配し続けた結果、ほころびが出てきているのだろう。
ナタリアたちがわりと頑丈なのは、母が国交のあまりない北国からやってきたからだ。
しかし血族結婚の弊害で身体は弱い。
そんな彼女に七人産ませた父は、鬼畜ぶりではローレンスと良い勝負だ。
結論がそこに至り、ナタリアは頭を抱える。
自分はとことん、ろくでなしに縁があるらしい。
これこそまさにマギー・サンズの呪いではないか。
「もし山羊の乳が不要であった場合でも、チーズを作れますから無駄にはなりません。西では評判ですよ。ダドリーの山羊のチーズは」
赤ワインによく合う、なかなか癖になる風味だ。
たくさん作って、使用人たちにふるまうのも良いだろう。
「わかった。まかせよう。かかる経費と飼育場の整備はグラハムに相談してくれ」
「はい。ありがとうございます」
ふと気が付くと、マリアは所在無げにうつむいて座っている。
まだ年端のいかない少女なのだ。
ナタリアたちの些細な会話にも気後れしてしまうのだろう。
「マリア様」
「は、はい」
呼びかけると、慌てたように顔を上げた。
「お気を楽にされてください。今日はたまたまこのような形になりましたが、これから二度とお二人のお邪魔は致しません」
「え・・・」
「マリア様。私たちは教会で式を挙げましたがそれがかりそめものだということは、ローレンス様からお聞きになったでしょうし、実際ご覧になったはずです」
あの日。
左舷の席にマリアは侍女と騎士に囲まれて座っていた。
社交界独特の軽い雰囲気の男女が多い中で、彼女は清らかで幼く、異質だった。
だから、ナタリアの記憶に残っていた。
挙式の最中に、ローレンスがわざわざ行った偽りの誓いのキスは、マリアに見せるためのもの。
この口づけ同様に結婚は偽りなのだと、高らかに宣言するための。
「・・・はい」
こくんと、泣きそうな顔でうなずいた。
ああ、この子は、本当にローレンスに恋をしているのだ。
心から、この男を唯一と思って、慕っている。
よりによって。
この、どうしようもない男を。
ため息をかみ殺して、できうる限りの優しい笑みを浮かべる。
「どうか、お腹のお子様と心安くお過ごしください。何か思うことがあれば、どうぞ遠慮なく私に申し付けてください。いつでも駆け付けます」
ローレンスに対して思うことは山ほどあるが。
目の前の少女とお腹の赤ん坊は守るべきだと思う。
たとえ、自分が危ない橋を渡ることになっても。
「マリア様とお子様の幸せのために全力を尽くします。私は、そのために辺境から出てきたのですから」
諭すナタリアの膝の上で、ウィルが顔を上げ「くるる、なあん」と鳴いた。
「待ってくれ、ナタリア」
背後から肩をつかまれ、振り向かされる。
腕の中のティムがぶわっと毛を逆立てたのを軽くゆすってなだめた。
「いったい、どういうことだ・・・」
動揺しているローレンスと向き合い、短く告げる。
「安心してください。先ほど申した通り、マリア様のためにならないことは一切いたしません」
「しかし・・・」
いらいらと無駄に美しい金髪をかき上げる男に、いっそ今禿げてしまえと心の中で呪った。
「まずはあの方とお腹のお子様の安静が第一です。それは身体だけに限ったことではありません」
ティムを抱きしめたまま、一歩近づく。
「どうか、このまますぐにお戻りください」
ちゃりとティムの喉元で婚約指輪が揺れた。
「あんなかわいらしい方を不安にさせるなんて、言語道断でしょう」
本当は、もっと的確な言葉で突き刺してやりたいが、ここは引いておく。
「お話は、後に。・・・そうですね。奥様が眠られた後にいらしてください」
どこに、とは言わない。
息がかかるほど近くに立ちゆっくり瞬きすると、ローレンスはこくり喉を鳴らした。
「・・・わかった」
声が、かすれている。
「・・・お待ちしております」
甘く囁くと、青い眼に熱がともった。
「・・・ああ」
ため息のような、応え。
餌に、食いついた。
-つづく-
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