恋の呪文-1- 



 金曜日の、アフターファイブ。

 週休二日制の会社に勤める会社員たちがこぞって飲み屋街に繰り出す、無礼講の夜。
 学生時代の友人たちとの近況報告。
 惚れた女をモノにしようと、ありもしない懐をはたいてホテルの豪華ディナー。
 平日は多忙な仕事でなかなか会えない恋人たちの、待ちに待った一夜のデート。
 職場では決して口に出来ない、人間関係などの悩み事相談。
 グルメブック探索による、女の子同志の美味しいもの食べようツアー。
 そして、仕事仲間でのストレス発散。
 彼らは、わがままな顧客やうるさくて頭の固い上司のいない所で、食いたい放題、呑みたい放題、言いたい放題、歌いたい放題、しまいには暴れたい放題の困ったちゃん。
 酒が入っちまえば、こっちのモノ。何をしても許されるのさ。
 たとえ、そこら中にビールをばらまこうが、噴水のなかに友人をつっこもうが、自分の娘と同い年位のバイトのおねーちゃんにむりやりキスしようが、公共物を破損しまくろうが、彼らに罪の意識は全くない。
「すいません。酔っぱらってたから、記憶にないんです」
 わはははは。
 とぼけてごまかせ、笑ってごまかせ。
 たとえ、ちょびっと、頭の片隅に引っ掛かるものがあるとしても。
「全ては、酒の上の、あやまちなんです」
 しょーがねーなー。『酔っぱらい』ってやつは、よ?
 ・・・それが、日本の、隠された黄金律。 黄門様の葵の御紋よりも、ずっと、ずーっと効果的。
 まあ、素敵。
 酒さえあれば、スーパーマンにも、お大尽様にもなれてしまう。
 あら、不思議。
 それが、日本の戦うサラリーマン。
 だって、毎日、毎日、蟻さんのようにせっせせっせと働いて、きついんです。つらいんです。
 でも、そんなの、女房子供やおふくろにゃ、口が裂けても言えやしない。
 王様の耳は、ろばの耳。
 こっそり言いたい、ぼろぞうきんに成り果てた胸のうち。
 酒という、美しく美味しい名の元に、彼らは今夜も荒れ狂う!



「わーっはっはっはっはっはぁっ!」
 がっちりと握り締めたマイクに唾を飛ばして、ちょっぴり頭の毛の薄い男が吠える。
「ひゃははははははっ」
「しゅっに~ん!すっ、てっ、きぃっ!」
「しゅにぃーん!抱いてぇーっ」
 やんや、やんやと部下たちが囃したてる。
 一人は、意味もなく隣に座る男の肩をばしばし叩いて笑い転げ、もう一人は頭にネクタイをバンダナ代わりに巻いており、他の者も、背広やシャツや頭をくしゃくしゃにして笑い転げている。
 奥では、呑みすぎてすっかりのびている者や、眠たげに目をこすっている者がけだるげに横たわっていた。
 それとは対照的に、くだらないだじゃれを連発する者、演歌だろうがポップスだろうがおかまいなしに曲に合わせて踊る者や、冷静に曲集をめくってすかさず自分の歌いたい曲を登録しまくる者もいる。
 土曜日に限りなく近い、金曜日の夜のカラオケボックス。
 簡素な部屋にひしめく正気を失ったサラリーマンたち。
 はっきり言って、むさくるしい、の一言に尽きる。
 しかも、男ばかり十数人集まると、ある程度密室であることも手伝って、異様な盛上がりを見せるものだ。
 たとえば、六畳あるかないかの狭い部屋に、図体がでかくて、力も強くて、煙草をがぷがぷすい、ざくざく酒を呑んで暴れる、オオカミ君を十人詰め込んだらどうであろう?
 少しでも理性のあるお嬢さんなら、絶対近付かないに決まっている。
「池山和基っ。脱ぎまーっす!」
「松田もっ!脱ぎまーっす!」
「おーい。松田ぁ。ちゃぁんと、ミッキーのぱんつ、はいてきたかぁ?」
「はいッ。池山さんは、ドナルドくんですぅー」
 どっと部屋がわく。
「主任っ。準備おっけーです。歌をお願いしますッ」
「おおぅっ」
 ちゃきっと、先程まで演歌をうなっていた男が、再びマイクを構える。
 一転して、ムーディな音楽が流れ始めた。 彼の前では、二人の部下が曲に合わせて、ゆるり、ゆるりとシャツのボタンを外していく。
「色モノ営業トリオー!それで、いっぺん顧客会議に出てみやがれ~」
「いいぞーっ。池山ぁ。ちくび、あっかいぞーっ」
「松田ー。立、体、ミッキー!早く見せろーッ」
 お下劣な冷やかしに乗って、場は果てしなく盛り上がっていった。
 彼らは、某大手電気メーカーのシステム開発部門のエンジニアと仕事を取り付ける営業たちである。
 わがままな上に、無茶が大好きな顧客と、言うことを聞かないマシンに振り回されて、彼らの睡眠時間と休日はほとんど無いに等しい毎日を送っていた。
 こういう時にたまった疲れは、酒を呑んで暴れて吹き飛ばすに限る。
 たかだか数時間の短い睡眠時間じゃとても癒されない何かが、彼らを狂気へと駆り立てていた。
「おにィーの、ぱんつはぁっ、いいぱんつぅ!」
「まつだぁっ、きったねーケツをこっちにむけんなぁっ!ばかやろーっ」
「なんだとー!岡本ぉ!おじょーひんぶってんじゃねーよっ」
「そーだ、そーだぁっ!」
「さぁっ!みんなで、岡本くんをひんむこーではないかぁ!」
「お~!」
「わぁぁぁぁぁ~っ!やめろーッ」
「ふひゃははははははははっ」
 室内は阿鼻叫喚の様相を呈してきた。
 ・・・センスがなかろうが何だろうが、これが、彼らのストレス発散法であった。
 苦しいとき、悲しいとき、みんなで浴びるほど酒を呑んで、みんなで仲良く沈没する。 涙なしでは語れない、絶妙なチームワークである。
 たいてい、飲み屋を何件かはしごして、仕上げは個室でのカラオケと、コースは決まっていた。
 安月給の若手サラリーマンの予算では、まあ、こんなものかもしれない。
 バブルが弾けても、政府が景気回復宣言をしても、銀座のバーやスナックの敷居はまだまだ高いのだ。


 そして、その、お定まりコースのフィニッシュというべきカラオケボックスで、事件は、起こった。
 一人の若手有能営業マンと、一人の若手有望システムエンジニアの上に。
 縁は異なもの、味なもの。
 幸か、不幸か、はたまた・・・?
 真実は、神のみぞ知る。
 ・・・・くわばら、くわばら。
 合掌。    



 トゥルルルルルー。
 部屋の片隅に設置された電話が鳴る。
「うぉーい。そろそろ時間だとよー」
「延長するかぁ?」
「いいや。俺たちSE組は明日も出にゃ、客に殺される」
「もう、日付は変わってんぜー。立石ぃ」
 ザルのように酒を飲んでいながら酒に呑まれなかった、いわば生き残りが無駄口を叩きあいながら解散と決めたらうってかわっててきぱきと片付けを始める。
 片付け、と言っても、単につぶれた奴をたたき起こし、背広とネクタイと靴下と鞄を各自持たせ、靴を履かせるだけなのだが。
 ただ、それだけ。
 しかし、酔っぱらいが相手だと、『ただ、それだけ』でも、ものすごーく、苦労するのだ。
 要するに、こういう時は理性を少しでも残している奴が、損をすると決まっている。
 今回は十二人中三人が完全につぶれて、なんとか動けるのが六人、残る三人が貧乏くじを引いていた。
 とりあえず、半数以上は自分の足で帰れそうなので、ましなほうだと言える。
「・・・これは、さっさと金を払って、ずらかったほうがいいかもしれんな」
 貧乏くじ組の一人、立石と呼ばれた背の高い男がぽつりと呟く。
「へ・・・?」
 傍らの小柄な男が、彼の視線の先をゆっくりたどる。
 テーブルの下は、ビール瓶が数本転がり、床をぐちょぐちょに濡らしていた。
 さらに、入り口近くでは靴も靴下も脱ぎ散らかし、その上にウィスキーらしきものをぶちまけていた。
「あちゃー・・・」
 店員に文句を言われるだけならまだ良いが、器物破損で弁償金まで請求されると面倒である。
「おい。今日は、幹事が金、集めてんだろ?俺、先に払ってくるわ」
「それがいいかもな。おい、江口。池山を起こせ」
 酒に呑まれかけているのか、ぼんやりと鞄を抱えて座り込んでいる大柄な男に、立石は声をかけた。
「はぁ・・・」
 焦点の合わない瞳もそのままに彼はとりあえず指示に従って、ゆさゆさと隣で転がっている男を揺さぶった。
「池山さーん。起きてくださーい。帰りますよー」
「う~ん」
 着衣も髪も乱れるにまかせたままマグロのように転がる男は、わずかに唸るだけでぴくりともしない。
 さらに乱暴に揺さぶってみる。
「池山さんっ」
「はいっ!」
 元気の良い返事とともに、いきなり、がばっと池山は起き上がった。
 江口と向き合う形で座り直すと、顔をゆっくりと寄せて彼を凝視する。
 思わず、負けずに江口も見つめ返す。
 にっこり。
 首を少し傾けて、池山は笑った。
 へにゃ。
 つられて江口が笑い返した、その時。
 何か、重いものがいきなりのしかかり、ぐるりと天地がひっくり返ったような感覚に襲われた。
「江口っ、よけろっ」
 先輩SEである岡本の慌てた声らしきものが遠くで聞こえ、次の瞬間。
「・・・・・・・・・っ!」
 口が、生暖かいものに塞がれていた。
 酒と、煙草の味が、唇の辺りがらしっとり染み込んでくるようなイメージ。
 池山の唇だった。
 池山が、江口の上に馬乗りになって、彼の唇にかぶりついてくる。
「ちょ・・・っ」
 江口は慌てて、ばたばたと手足を振り回してもがくが、あまりのショックのせいなのか力が全く入らない。池山は身長のわりにはやや痩せ気味で、さらに約十センチ高い上に筋肉質な体型の自分と並んで立つと頼りなげに見えるはずなのに、この馬鹿力はいったいどうしたことかと戸惑った。
 おそるべし。池山和基。
 能ある鷹は、爪を隠してたということか? 江口の思考回路は、どんどこ現実逃避し始めていた。
 そして、江口が、ふっと抵抗の手をわずかに緩めた途端、さらに池山は江口の頭を両手で挟んで固定する。
「むぐぅ・・・・・・!」
 今度は手加減なしの、大人の口付けとはこういうものだと江口の体に教えこむがごとく、技という技を駆使したキスが襲いかかってきた。

 いいかげんっ、目を覚ましてくれぇ~! 
 江口の悲鳴は、再び池山の唇と舌によって吸い取られていった。


「あっりゃー。江口も気の毒に。あいつ、知らなかったのか?」
 『酒に強いはずの池山が悪酔いしたときには、彼に近よってはならない』
 これは、仕事仲間なら、だれもが知っている『鉄則』である。
「そうだろう。こっちのユニットに移って、まだ二ヵ月なるかならないかだしな」
 早く使いものになるように仕事を教えこむのが精一杯で、その件について誰も思い出さなかった結果が、これである。
「まあ、身をもって知ったから、いいか・・・」
 池山がたばこを取り出し火をつけると、彼の胸ポケットから一本拝借した岡本がもらい火をした後、ふーっと空気の濁りきった天井に向けて煙を吐き出した。
「でもさー、池山って、マジでテクニシャンだよなぁ。あんなにでかい江口が、身動きひとつ出来ないでいるんだからよ」
「・・・そーいうもんか?」
「あの・・・」
 江口のもがいている様を煙草でもふかしながら二人でのんびり眺めているのを見かねた素面組の最年少である中村が、おそるおそる口をはさむ。
「あの・・・。江口さんを助けなくていいんですか?」
 そういいながらも、池山の勢いに恐れをなして自分自身が二人に割って入る勇気はない。
 華奢な中村が入ろうものならどちらかに押し倒されるのが関の山だろう。
「それもそうだな・・・」
 立石がゆっくりと腰を上げる。
「え?もう止めるの?つまんねーなぁ」
「・・・岡本さん・・・。そりゃないですよ・・・」


「く・・・っ」
 先程とは、比べものにはならない、ふかい、深い口づけ。
 池山は江口の口の中を、己れの欲するままに貪った。
 少し熱い池山の舌がいともたやすく江口の唇を割って入った後、丁寧に歯列をたどり、さらに奥を探る。
 必死で抵抗していたはずなのに、いつの間にか、彼の動きに自分の舌も同調していた。 深くからんで、強く吸う。
 呼吸するのも忘れて。
 もっと深く、もっと・・・・。
 いつしか、江口自身も池山の唇を噛み付くように貪っていた。



「おい、池山。いい加減開放してやれ」
 ため息混じりの呼びかけと共に、江口の体の上の重石がふっと軽くなる。
 気が付くと、立石が背後から腕を回して池山を抱え上げていた。
「悪かったな。こいつ、深酔いすると、たまぁに、こーいうことするんだよ」
「・・・・はぁ・・・」
 ため息を返事代わりに江口は返す。
 どれだけの時間を池山とキスしていたのか、今の江口には見当がつかない。
「目が回る・・・」
 今度こそ、本当に体中の力が抜けていた。
「災難だったなぁ。江口ぃ。犬に噛まれたと思って、忘れんだぞー」
 くっくっくっと肩を震わせながら、岡本が横からちゃちゃを入れる。
「・・・岡本。遊んでる場合じゃないだろーが」
 よいしょ、と立石は池山を抱え直す。
 そして胸のポケットから紙封筒を取り出し、大きな瞳をしばたいている後輩に向かって放り投げた。
「中村。これで精算しといてくれ。余った金の配分は明日な」
 ちゃり、という音をたてて金の入った封筒は中村の手の中に納まった。
「・・・わかりました。そちらはよろしくお願いします。」
 彼は、完全に意識を失って立石にもたれかかる池山と、頭をぐしゃぐしゃにされたままぼんやり座っている江口にちらりと視線をやり、ため息を一つついて部屋を出ていった。
「江口、これ、ウーロンみたいだから、飲んでみな」
 岡本が差しだしたコップを受け取り、一気に飲む。
 氷が解けてほとんど水のように薄いその液体は、江口の喉を通って、体の芯まですうっと冷やした。
「ちっとは、落ち着いたか?」
「はぁ・・・」
「よし。なら、後から行くから先に出てろ。中村たちも外で待ってるだろ」
「わかりました。・・・じゃあ」
「あ、絶対待ってろよ。寮まで一緒にタクシーで帰るからな」
 ひらひらと手を振る岡本の背後で、池山はこの上なく幸せそうな寝顔でソファに横たわっていた。



「江口も、中村も、初体験ってやつかぁ。かわいーねぇ」
 落ちている靴下を指先でつまみ、紙袋に放りこんで岡本が笑う。
「初々しいったら、ありゃしない」
 あちこちに散らばっている池山の荷物を拾い上げながら、立石は顔をしかめた。
「・・・年寄り臭いぞ」
「まあ、ひどい。徹くんったら。つれないのね」
 腰をくねらせてしなを作ってみせる岡本の頭に、石のように丸まった誰かのハンカチが飛ぶ。
「・・・とにかく、ここを出よう」
 全身にへたり込みたいほどの疲れを感じた立石は片手に荷物をまとめて歩きだした。
「俺、池山より、とぉってもか弱いから、よろしくね、徹くぅん」
 にたり、と岡本が歯を見せて笑う。
 「俺は第二の江口になりたかないぜ」という意味が、言外に含まれていた。
 勘が良くて面倒見がいいと、こういう時に損をする。
「・・・わかった」
「ありがとう。愛してるわ。キャプテン」
「・・・やめれ」
 立石は投げキッスをよこす岡本に、心底嫌そうな顔をする。
 彼は、学生時代運動部の部長を歴任した男であった。
 面倒見の良さは筋金入りだ。
「おい、池山。歩け」
「ふしゅー」
 口をもぐもぐするだけの池山の腕を自分の肩に掛けさせ、胴体を片手で支え、やや乱暴にずるずると引きずるようにして立石は出口に向かった。
「・・・・そういえば、岡本」
 池山を抱え直しながら、立石は振り返る。
「なに?」
「こいつの代わりに、そこの、もっとか弱いミッキー君を頼んだぞ」
 にっと意味ありげに笑みを残して、立石は部屋を出ていった。
「ミッキーくん・・・?」
 嫌な予感が岡本の頭を駆けめぐる。
 慌ててソファの裏を覗くと、そこには、ミッキーマウス柄のパンツ一枚で転がっている男がいた。
 ついさっきまで池山と仲良く裸で踊っていた奴である。
「ちくしょ~っ、立石ッ!松田のほーが、めんどーじゃないかーっ!」




 かちゃ、かちゃん。
 陶器の触れ合う音で、目が覚めた。
 ふわり。
 コーヒーの香りが、微かに池山の鼻をくすぐる。
 ・・・うまそうな食物の匂いも一緒に。
「んーっ」
 両腕を思いっきり天井に向かって伸ばしてひと伸びし、池山は布団から起き上がる。
 障子を通して差し込む朝日は、やんわりとしていて心地よい。
 壁に目を向けるとスーツはきちんとハンガーにかけて吊るしてあり、自分はシャツとパンツ一枚で布団にほうり込まれたことを知った。
 枕元に置いてあったジーンズとシャツに着替えると、軽いストレッチをして部屋を出る。
「立石ーっ。俺の分も、あったりするかぁー?」
 ひたひたと冷たいフローリングを歩いて、ダイニングキッチンへと向かった。
「・・・もしかして、お前、腹減ってんのか?」
 ペーパーフィルターへ湯を落とす手を止めて、相変わらず頑丈な奴、とあきれ顔でこの部屋の家主である立石が振り返る。
「おう。育ち盛りだからなっ」
「馬鹿野郎。二十七の育ち盛りがどこにいる」
 文句を言いながらも、立石は池山の前にトーストしたてのパンと半熟の目玉焼きを手早く並べた。
「俺、また、つぶれたんだなぁ」
 がぶり、と大きく口を開けて、バターを塗ったトーストにかぶりつく。
「・・・やっぱ、美代子と別れたの、心のどこかで傷になってたわけかぁ?」
「お前、また、別れたのか?」
「うん。見合い話が固まりつつあるって言うからさぁ、きりがいいじゃん」
「そういうもんか?」
「ああ。おりゃ、面倒事は嫌いだ」
「面倒事ねぇ・・・」
 コーヒーの入ったマグカップを二つテーブルに置いて、一人ごちる。
「女と別れたやけ酒で男を押し倒してんじゃあ、信じられんなぁ。そのせりふ」
 一口含んだ牛乳を、池山はぶっと勢い良く吹き出した。
「・・・まだ、酒が抜けてなかったか?」
 立石は一瞬眉間にしわを寄せて、テーブルを布巾でてきぱきと拭き清める。
「わっ、ごめんっ。俺が拭くからっ・・・じゃなくって、立石っ」
「ん?」
 きちんと布巾を洗い終えた後、何事もなかったかのように椅子に静かに腰を下ろし、ゆるりとマグカップを口に運びながら、立石は答える。
 微かに伏せた深い茶色の瞳は、緩やかに立つコーヒーの白い湯気を見つめていた。
 その表情と落ち着き払った態度には、某インスタントコーヒーメーカーのCMに出てもおかしくない落ち着きと、優雅さが漂っていた。
 こいつの、この、何にも動じないじじむささが嫌いなんだよっ。
 正体なくした自分を介抱して家まで連れ帰ってくれ、きちんと布団に運んで衣服の始末までしてもらい、更には彼の手料理の八割がたを胃の中に納めておきながら、池山はあさってに向かって悪態をつく。
「俺、また、お前・・・とかに、何かしたわけ?」
 営業部金融課所属の池山和基と、システム開発部金融一課所属の技術者である立石徹は同期である上に仕事の関わりが深いせいか、同じ飲み事に揃って顔を出すことが多かった。池山は浴びるほど酒を呑んで周囲を盛り上げ、立石は同じだけ呑んでいながら、最後は必ずつぶれた者の介抱をする。
 そんな二人に周囲が面白がって付けたあだ名が、『うわばみ兄弟』。
 最近では、彼らがいなければ宴会は始まらないとさえ言われている。
 それとは別に、池山は立石にもう一つのあだ名をこっそり付けていた。
 題して『俺様専用ボイスレコーダー』。
 飛行機事故などで事故原因究明の重要な鍵となる、あの、記録装置である。
 酒の勢いに任せて何か恥ずべき行いをしていないかどうかを知るには、立石に尋ねるのが一番だ。
 なぜなら彼は無理に場を盛り上げたりしない代わりに、酒で意識や記憶を失ったりは絶対しないからだ。
 『分からないことや知りたいことがあったら、恥ずかしがらずに周りの人に尋ねなさい』
 小学校の先生は、いつもそうおっしゃっていたではないか?
「そうだな・・・俺に、じゃあないんだがな・・・」
 温厚といわれる立石には珍しく意地悪げな笑いが口元に浮ぶ。
 いつもいつも介抱してさし上げていると言うのに、目の前の男は感謝の言葉を口にすることなく、まるでここの家主は自分であるかのようなくつろぎっぷりである。
 ここ数年の付き合いでいい加減慣れたとはいえ、少しはちくりと針を刺してみたいものだ。
「え?」
「今回の被害者は、うちの江口だ」
 池山の頭の中を、技術者にあるまじき大柄な新人の顔がふとよぎった。
「江口って、あの、有望株とか言う?」
「ああ」
 今回は、あいつ一人で良かったなぁ。と、慰めにもならない言葉を立石は楽しそうに呟く。
「で、そいつに、何したわけ?」
「いきなり押さえこんで、無理矢理ディープなキスしてた」
「げげっ。またやったかー」
 げっそり肩を落しながらも『あのばかでかい身体を押し倒すなんて、俺様って、やっぱり凄いかもしれない』と、池山は心の中で秘かに感心した。
「お前、スッポンのように食いついたまま離れなくって、ひっぺがすのに難儀したぞ」
「ありゃー」
 池山は口元に手を当てる。
「ばりっばりのやつ、かましたかも・・・」
 自慢するつもりはさらさらないが、キスに関しては多少の自信があった。
 ただし、女を対象とした場合、なのだが。 あくまでも。
「やっちまったもんは、しょーがねーなー」
「・・・他に言うことはないのか」
「わははははっ」
「笑ってごまかすんじゃない」
 立石は、大きなため息をついた。
 いくら顔が芸能人ばりにずば抜けて良いとはいえ、こんな無責任男が社内一女にもてるんだから、世の中は解らないものである。
「きちんと謝っとけよ。相当ショックを受けてたみたいだからな」
「うん、わかった。月曜に会った時にでもそうするわぁ」
 幸せそうに食後のコーヒーをすすりながら答える。
「俺、生粋の営業だもん。謝るのは得意中の得意さね」
 酒の席での悪ふざけだ。
 謝れば、笑って許してくれるのが常識というものではないか?
 普通の、世間一般の、社会人の間で、ならば。
 ・・・はたして、本当に?
「まあ、謝るだけで丸く納まるなら、別にいいがな・・・」
 マグカップを軽く揺すってコーヒーの波を眺めながら、立石はぽつりと呟いた。




「いやー、めでたいよなー。わははははははっ」
「ほんとぉーに、一時はどーなるかと思ったぜぇ」
「さーっ、諸君っ、かぁんぱいしよーぢゃないかぁっ」
 呼びかけに応えて、全員一斉に思い思いのグラスを握りしめて、何度やったかわからない乾杯を繰り返す。
 ほとんどの人間が泥酔した、あの、狂乱のカラオケボックスから約一ヵ月の月日が経っていた。
 仕事を途中で投げ出して飲みに行ったのが祟ったのか、翌日からはなんとバグの雨あられで、現場のSE(システムエンジニア)のみならず研究所や工場を巻き込んで、マシン室は大荒れに荒れた。
 営業は地を這うミミズのごとく顧客に頭を下げまくり、SEは機嫌を直してくれないマシンへ奴隷のごとく昼夜を問わず奉仕した。
 忙しい最中に顧客は怒鳴りこんでくるわ、社内新聞以外で滅多にお目にかからない会社のお偉方が血相変えて飛んでくるわ、『泣きっ面にクマンバチ』状態であった。
 誰もが、「もう死んだほうがましだろう」と、何度も心の中で呟いた。
 しかし、終わりのない冬も、明けない夜もこの世には存在しないというのが、ありがたいかな自然の法則。
 関係者を地獄の底の底まで追い落とし、キリキリ舞いさせたバグの嵐も、ちょっとした糸口をきっかけにあっという間に引き潮のようにぐんぐんと引いてしまった。
 気がつくとあれよあれよと言う間にラストスパートがかかり、プロジェクトはつつがなく当初の予定どおりの期日に第一段階を終了した。
 そして、今度は「終わりよければすべて良し」という飲み会を開いたわけである。
 メンバーはいつもの面々プラスに助っ人を加え、男だけというのに三十人をゆうに越えていた。しかも、疲労を重ねた体に注ぎ込むアルコールは回りが早い。それを知っているにもかかわらず、喜びに我を忘れた彼らはとめどもなく飲みまくった。
 異様な盛上がりにたまたま居合わせた一般客達の血の気が引いていたが、食べ放題飲み放題がうたい文句の居酒屋の店員たちは、触らぬ神に何とやらを決め込んでいた。
 呑んで呑んで、食べて食べて、暴れて暴れて・・・・・。
 二次会へ移る頃には、既に理性を通り越して本能すら失った者がほとんどだった。



「さーて、生き残ってる奴はカラオケにいくぞーっ」
「おーっ」
 足元がおぼつかないながらも、テンションの下がらない連中は、ぞろぞろとあらかじめ予約を入れていたカラオケボックスに向かって歩きだす。
 二次会の会場は彼らのいる居酒屋からは目と鼻の先に位置していたが、あまりの惨状に耐えられずいつのまにか騒ぎに紛れて闇へと消えた者も幾人かいた。
 これだけ大人数の飲み会なら、たかが数名欠けたとて、だれも気にかけたりはしない。 まだ遊び足りないものは遊び、そうでないものはさっさと帰る。
 自分の面倒は自分で見ろ、の状態である。
 そんな中、今回の幹事である岡本を江口が呼び止めた。
「岡本さん、すみません」
「んあ?」
「悪いけど、俺も、先に失礼します」
「どーした?ぐあいわりぃか?」
「いや、具合悪いのは俺じゃなくって・・・」
 ちらりと後を振り返る。
「池山さんです」
 江口の肩ごしに覗き込むと、近くの飲み屋のポーチの段差に池山がぐったりと座り込んでいた。
「おんや珍しい。あいつ、顧客掛け持ちフル活動だったから疲れがたまってたかな?」
「・・・みたいですね。仕方ないから、俺、池山さん送って帰ります」
「んー?そーかぁ?わりぃな」
 岡本は十数メートル先にあるカラオケボックスの看板に目を遣る。
「今日は立石が出張でいねーからよ、後始末俺がやんないとな・・・」
「そうですね」
 にっこりと江口は笑う。
「俺も、けっこう酔ってるんで、ちょうどいいです」
「そうか。じゃあ、頼んだわ」
「それじゃ、失礼します」
 酔っていると言ったわりにはしっかりした顔つきで、江口は池山を肩で支えながら足早に立ち去った。
「あれ・・・」
 カラオケボックスのドアに手を掛けて振り返った岡本は呟いた。
「駅はそっちに無いはずだがなぁ・・・。あの先にあるのは・・・」
 こき、と首を鳴らした後、鞄を持ち直す。
「やっぱ、あいつもかなり酔ってんなぁ」
 たくさんの酔っ払いが行き来するなか、池山と江口の姿はあっという間に見えなくなってしまった。





 ざぁ・・・・・。
 シャワールームの水音が、控えめに聞こえる。
 そして、わずかな湿気と一緒にボディソープの匂いが漂ってくる。
 かたん。かたかた。がたんっ。
 シャワーを止め金にかける音と、おそらく浴室のドアを開ける音。
 池山はゆるりと目を開く。

「・・・はぁ・・・」

 なぜなのかさっぱり解らないが、常に寝起きの良い自分にしてはけだるい目覚めである。
 瞳にぼんやりと移るのは、真っ白な天井と、シンプルな柄のカーテン。
 その薄いカーテンを通して、窓からはうっすらと明かりがさしていた。
 ごろり。
 ベッドは池山が数回寝返りをうっても転げ落ちそうにないほど広い、キングサイズ仕様であった。
「ここ、どこだっけなぁ・・・」
 見覚えはあるのだが。
 とりあえず、渾身の力を振り絞って上半身を起こした。
 かちゃ。
 ドアが開く。
 トランクスに軽くシャツをはおり、肩にタオルを掛けて短い髪を片手で無造作に拭きながら、若い男が出てきた。
 背は友人の立石と同じ位に高く、肩から腰に掛けてびしっと筋肉がついており、いかにも体育会系の体つきである。
 この肉の付き方は野球選手のようだなとぼんやりと思い、
「江口・・・?」
 考えるよりも先に、名前を呼んでいた。
「あ、おはようございます」
 当の江口は振り返り、折り目正しく挨拶する。
「今、何時だ?」
「六時を少し過ぎたところですね」
「そうかぁ・・・」
 腕を組んでうーんと唸ってしばらく考えこんだ後、池山はため息をついた。
「悪い。頭、回らんわ。けど、俺、またつぶれたんだな?」
「はい」
 江口は服を身につけながら答える。
「それでもって、ここは、どこだ?」
「マロニエホテルって言って解りますか?」
 ネクタイをしめる手を止めて、振り返った。
「あー。マロニエね。なるほど、見たことある内装だと思ったんだよな」
「ご存じでしたか」
「うん。この間、総務の野島ちゃんと来たからな。ここ、低価格の割りには良いホテルだもんなぁ」
「野島さんと・・・ですか?」
 江口は少し目を細めて、池山の顔を覗き込む。
「あ、これはオフな。彼女、十一月末には結婚すること決まってるから」
 池山はにっと笑いかける。
「たまたまやりたくなったって言うか、酒の勢いだからさ。お互いどうこうするつもりはさらさらないよ」
「そう・・・ですか・・・」
 何やら考え込んでいる江口をよそに、池山はごそごそと動きだした。
「さて、いったん家に戻ってから会社に行くか・・・・っつっ!」
 ベッドから降りて立ち上がろうとした瞬間、鋭い痛みが体を走り、池山はその場にしゃがみこんだ。
「池山さん!」
 慌てて江口が駆け寄る。
「~~~~~」
 池山は声にならない悲鳴をあげた。
 寝呆けていたせいでか、さっきまで何も感じなかった痛覚が、いきなり大津波のように押し寄せてきた。
 大手術の後にいきなりふっと麻酔が切れたような、ちょうどそんな感じ。
「大丈夫ですか?」
 江口は慌てて池山を抱え上げる。
 その瞬間、骨のきしむような感覚に池山は息をのんだ。
 ゆっくりベッドに横たえられて、ゆるゆると息を吐き出す。
「・・・いってー」
「あ、すみません。乱暴でしたか?」
 江口が気づかいの言葉を口にする。
「いや・・・。悪いな。どういうわけか、体中っ・・・が、痛いんだよ」
「体中、ですか・・・」
 江口は、ちょっと困ったような顔をした。
「いったいどうしたんだろうな。筋肉痛ってわけでもなさそうだし・・・」
 横たわったまま、池山は後輩を見上げる。
「江口。俺、階段からおっこちるか、何か、すっげー暴れるかしたのか?」
「・・・・は?」
「だってさ、腰骨というか、腰の中心の辺りがすっげー痛いんだ。ええと、あ、ほら、女の生理痛に似てるかもな」
 江口は池山の傍らにゆっくり腰掛けた。
「腰が、痛いんですか?」
「ああ。ついでに言うと股関節もなんか変だ」
 江口は大きな瞳で池山をじっと見つめたまま問いかける。
「で、昨夜のこと、全く覚えてないんですか?」
「うーん。一次会の途中あたりから、記憶がすぽーんと・・・」
 こう、すぽーんとな・・・と手をぱっと振りかざして池山が示そうとしたその瞬間、彼の唇はふさがれていた。
 始めはきつく、吸い上げるように。
 一呼吸おいて、二、三度軽くついばんで。 最後に優しく唇を包み込むようなキス。
 ゆっくりと少し温度の高い舌が口のなかをさまよう。
 気持ち良くて、意識を手放したくなるような。
 
 気持ちいい・・・?
 池山はゆるく閉じてたまぶたを開く。
 自分の上に江口が覆い被さっていた。
 ちょっとまてっ、なんなんだっっ、こりゃぁ・・・・・・・・・! 

「くっ・・・」
 池山は喉を鳴らす。
 空いている手で江口の肩口を力いっぱい何度も叩くと、彼はゆっくりと唇を放した。
「本当に、覚えてないんですか?」
 池山の両脇に手をついた状態のまま、江口は尋ねる。
 彼の暖かい吐息が、ゆるやかに池山の頬を撫でる。
 射るような瞳は、池山の瞳に固定したまま動かない。
 ぞくっとするほどの、真摯な眼差し。
 昨夜の酒が残っているわけでも、ふざけているわけでもないことは、一目瞭然である。 と、いうことは・・・?
 トランクス一枚で、ベッドに横たわっている自分。
 朝っぱらから、しらふで思いっきりディープなキスをしかけてきた江口。
 どちらかというと、腰の中心に集中している、この痛み。
 それでもって、ここは、俗に言うラブホテルの一室。
 考えたくないけど、これは・・・?
 池山の顔が、次第にこわばっていく。
「全然っ、まぁーったく覚えてねーけど、・・・・まさか、と思うけど・・・」
「はい?」
 言いよどむ池山の言葉の続きを促す。

「・・・お前、俺を、抱いた、のか?」

 違うと言ってくれっ!
 頼むから、たちの悪い冗談だと笑い飛ばしてくれぇっ!
 おお、神よ!!
 池山は、この、コンマ零点一秒にどれほど力を入れて祈ったか知れない。
 しかし、池山のこのささやかな願いを、江口はあっさりとはねのけた。

「はい」

 あああああーっ!!
 なんてこった!!

 池山は慌てて矢継ぎ早に質問する。
「あの・・・さ、抱くって、肩を抱く、とかじゃなくってな・・・」
「ええ」
「大人の、男と女のする・・・」
「・・・」
 こっくり。
 ただ黙って、江口は頷く。
 池山の全身から冷汗が流れる。
「・・・やっちまったってわけ?」
「はい」
「フルコース?」
「そうです」
「・・・一発?」
「いいえ。・・・三回くらいだと・・・」
「さ、さんかい?」
 引いていた血が一気に逆流し、頭のてっぺんに駆け上がった。
「こんの馬鹿ものーっ!ヤロー相手に、そこまでする奴がいるかーっ!」
 渾身の右ストレートが、綺麗に江口の頬に納まった。
 江口が床に転げ落ちるのを見届けると、池山は上半身を起し、ベッドから飛び降りる。
「・・・くぅ・・・」
 やはり腰はまだかなり痛い。
 しかも、膝ががくがく、いや、げらげら笑っている。
 痛みをこらえつつ、部屋を横切り、ソファに掛けてあるスーツとシャツを乱暴に手に取る。
 怒りに頭を煮たぎらせながら、シャツのボタンをいらいらととめる。
「池山さん・・・」
 床から起き上がった江口が背後から声を掛けてくる。
「うるさいっ」
「でも、あの・・・」
 心なしか狼狽の色が見えた。
 池山は手を止めずに、すばやく考えをめぐらせる。
 『酔った弾みで男と体の関係を結びました』だと?
 冗談じゃないっ!
 いくら自分が女にだらしないからといって、男に欲情されるなどと、池山和基としての矜持が許さない。
 ましてや、酔っていたとはいえ、男に三回も突っ込まれるなんて、もってのほかだ。
 二度とこいつからこんな目に遭わされないためにも、予防線はしっかりはっきり張らねばなるまい。
 相手は、三つ年下のエンジニア。
 こっちはキャリア四年の新鋭営業。
 とりあえず、こういうときは主導権を先に握ったものが勝ちだ。
 自動車事故の時だとて、そうではないか。
 たとえ、どんなに自分が悪いのであっても、先に謝ったほうがあとあと分が悪くなる。
 ここは一つ、口八丁手八丁に限る。
 よし。
 一呼吸置いてから、池山は何事もなかったような顔をして振り返る。
「五分でここを出るぞ。荷物をまとめろ」
「え?」
「俺は体調不良で年休を取る。お前は、仕事に行け」
「は?」
 とまどう江口を黙殺して、池山は靴を履き、腕時計をはめる。
「あのっ」
 ふわり。
 そのとき、江口の服に染みついた匂いが鼻に届いた。
 池山は一瞬立ち止まり、すぐに振り返る。
「・・・ちょっと待った」
 おもむろに男の襟元を両手でつかんで、ぐいっと引き寄せた。
「・・・?」
「・・・・やっぱりな」
 くんくんとシャツの匂いを犬のように嗅いでみて、顔をしかめる。
「ここからだと俺ん家のほうが近い。仕方がないから、シャツだけでも着替えて行け」
「あ、いいです。俺はこのままで・・・」
「たわけ。・・・お前、酒臭いんだよ。お前が気にせんでも客が気にする」
「あ、いや、そういうことじゃなくって、池山さんの具合悪いのは俺のせいなんだから、俺、今日は池山さんの看病を・・・・」 
再び、池山はこぶしを振り上げた。
 またもや見事に江口の頬にヒットする。
「馬鹿たれっ!今日の会議は、お前が、主役なんだろーがっ!」
「はぁ・・・」
「てめーが仕事に穴開けりゃ、客に頭下げるのは、結局俺なんだよっ。酔っ払って前後不覚になった人の体をいーよーにして、少しでも悪かったと思うなら、うまく客を丸め込んで受注を取ってこいっ」




 池山の住むマンションは、南武線沿いの静かな住宅街にあった。
 さすがに八時前なので、 小学生や会社員の通勤姿がちらほらではじめていた。
 この地区はゴミの収集が木曜日の朝だから、遠くで収拾車の流す音楽が聞こえる。

「ま。 上がれよ」
 ドアを開け、靴を脱ぎながら池山は中へと促す。
 1LDKのこざっぱりした部屋。
 フローリングの床にはわたぼこり 一つ落ちておらず、意外と池山がきれい好きであることが解る。
 空気の入れ替えのために、池山は窓を開け、息をつく。
「さて・・・と」
  クローゼットからカッターシャツを一枚出して、江口に渡す。
「これ、着てみろ。たぶんサイズは合うだろう。あ、靴下はコンビニで換えていけよ。そ れくらいあるだろう?」
 ぱりっと糊がきいて、仕立てのよさそうな紺がベースのストライプのシャツ。
 するりと江口は袖を通した。
  首周りも肩幅も袖丈もあつらえたようにぴたりと合う。
「・・・やっぱりな。お前、ストライプのほうが似合うよ」
 池山は着替える姿を腕を 組んで眺めながら言う。
「けど、ネクタイ、それだと合わないよなぁ・・・」
 池山は、うーんと眉間にしわを寄せて考えた。
 今、 江口がしめているネクタイは、きっとどこぞのメーカーの安売り商品に違いない。 安物同志の組合せはうまく着こなせばそれなりに見えるのだが、上物ばかり の中で安物をたった一つでも混ぜると全体的に安っぽく見えてしまうことがある。
 それが、人目を引く位置ならば、なおさらだ。
「やっぱ、 ネクタイも変えて行け」
 池山は、結構、服の趣味にうるさいたちだった。
 それも、かなり。
「あ、いいですよ。ネクタイまで は・・・」
 江口は恐縮した。
「いいや。俺が気になるの。ちょっと待ってろ」
 奥の部屋へ入って、しばらく引き出しをかき回した 後、一本のネクタイを持って戻ってきた。
 青を基調とした、シックながらも綺麗な色合い。
 一瞬名残惜しそうにネクタイを見つめた後、 すっと差し出す。
「これ、して行け」
 受け取って何気なくタッグを眺めると、ブランド名の縫いとりが目に飛び込んできた。それは、イタリアのとある有名ブランドの名で・・・。
「えっ!!」
 ブランドに疎い江口でさえ、このネクタイの品の良さはおおよそ知っていた。
  多分、いや、はっきりいって、一介のサラリーマンが着けてよいものではない。
「だめですよ、こんな高価なの!」
 もしかして、何気なく袖 を通したシャツも、そうとう高価なものだったのではないだろうか。いや、そうに決まっている。
「ええいっ、ぐだぐだ言うんじゃないっ。惜しくなる だろーがっ!!」
「だったら、なおさらっ・・・」
「うるさいっ!」
 池山は一括する。
「そんな格好でお前を出したら、俺 のセンスが疑われるじゃないかっ。俺が客だったら、センスのない男と取引するのは嫌だぞ。ぜーったい、嫌だっ。一緒の空気を吸うのも嫌だっ。そんでもっ て、俺と同じ考えの奴が今日の会議のメンバーで重役クラスだったりしたらどうするっ?商談はパアだぞっ!パアっ!そしたら、また、上にどやされるだろー がっ!俺はそんなの嫌だし、断じて許さんからなっ!」

 ぜー、ぜー、ぜーっ。
 一気にまくしたてた後、肩で息をする。

「そ れでも、お前は、その青山をしていくって言うのか・・・?」

 いつのまにか、江口のネクタイの名前は『青山』になっていた。(実際、確か にこれはそれに近い代物なのだが)
 池山は上目遣いに江口を睨みつけて、返事を待つ。
 言うこときかなきゃ、末代まで呪ってやるから な・・・。
 バックに怨念じみた暗雲をどろどろと背負って、彼の瞳は、そう、訴えていた。
「・・・じゃあ、お借りします・・・」
  あの、『池山さん』が、ネクタイ一つにこんなにもエキサイトするとは、彼に熱い視線を送っている女どもは誰も知らんのだろうなあ。
 江口は心の中 でこっそりため息をついて、ネクタイを首に巻いた。
 襟元をきちんと揃えて鏡の中を覗くと、いつもより涼しげにまとまった自分がいた。
「・・・ ほーら。やっぱり、そっちの方がいいって」
 さっきの剣幕はどこへやら、胸をそらして誇らしげに池山は笑う。
「そのガタイと、その一分の 隙のない着こなしで、誰もお前がひよっこだとは思うまい。今日の仕事はばっちりだな!!」
 一人でうんうんとうなずきながら納得して、池山はなに げなく時計に目をやる。
「おーっと、もうこんな時間かぁ?急がねえと遅刻だな。こりゃ」
「あ・・・」
「朝飯は、朝礼の後にでも取 るんだな。ほれ、急げ急げ」
 江口を玄関へと押しやった。
「あの・・・」
「あ、駅の位置はわかってるよなっ。さっき通ったばかり だし」
 追い立てられるままに靴を履いた江口は振り返る。
「あの、すみません。来週には必ず、クリーニングして返しますから」
  そう言う江口に、池山は笑ってひらひらと手を振る。
「あ、それ。返さんでいいから」
「え?でもっ、これは・・・」
「ちょっとし た、口止め料」
「は・・・?」
 人差し指を唇に当てて、にやっと池山は笑う。
「酔った弾みとはいえ、男同士でカンケイしちゃった わけだよな?ちょっと変わった経験させてもらったぜ。ま、人生何事も経験だし?お前は俺に呑みすぎるとろくなことがないぞという教訓を少し与えてくれ、俺 はお前に服のセンスというものを伝授した。これで、お互い五分五分だ」
 どん、と江口に鞄を押しつける。
「シャツもネクタイもお前にくれ てやる。その代わり、酔って意識のない俺の体をいーよーにしたのも、俺の体調が年休とらにゃならんほど、すっげーわりいのも、今日の仕事の出来でチャラに してやろう」
 乱れかかる艶やかな黒髪をかきあげて、池山は艶然と笑う。
「ま、今回のことは、真夏の夜の夢とでも思ってくれ」
「池 山さん・・・」
 江口の目が、何か言いたげに訴えている。
 犬が飼い主に邪険にされて「どうして?」と淋しそうに鼻を鳴らすときの、あの、目をしていた。
 池山は、ふっと、伯母の家にいるセントバーナードのハナコを思いだした。

 やばいなぁ。
 優しくし たくなるじゃないか。
 女と子供と動物に弱い彼は、ふるふると頭を振る。
 いいやっ!
 俺様と、この大馬鹿者の、明るく楽しい将 来のためにも、情けは禁物だ。
 こういう時に、年上の俺がしっかりしなくてどうする?

 次々と浮かんでは消える考えを振り切るよ うに、池山は殊更明るい声で言う。
「さーっ。話はここまでだっ。時間がもったいないからなっ。あ、駅までは全力で走らんと、かんっぺきに遅刻だか らな」
 ぐいぐいと江口を玄関から押し出す。
 ただし、極力、さり気なく、江口の目は見ないようにして。
「・・・・じゃあ、失礼 します」
 江口はおとなしく歩きだす。
「じゃあなっ。会議、頑張ってこいっ!!」
 廊下で振り返って見た池山の顔は、この上なく 晴れ晴れとしていた。



 ぱたん。

 戸をゆっくり閉じる。口元にほほ笑みを貼りつかせたまま。

 かち。

  内鍵を静かに掛ける。優しく、穏やかに。

 かしゃ。

 チェーンをかける。落ち着いて・・・。
 ふと、思いついたように玄関に転がる靴に目 を止め、ゆるりと身を屈めて片方だけ手に取る。
 手のなかの靴をしばらく見つめた後、すっと息を止め、振り返りざま・・・・。 

 どかっ。

 靴は一直線に飛んで廊下の向こうのリビングの壁に当たった後、床に転がった。

 ずきんっ。

「いてて・・・」
 忘 れていた痛みが、倍増されて再び体を襲う。
 廊下にしゃがみこんで痛みを堪えながら、池山はきりりと奥歯を噛み締める。

 俺が 酔っ払っているのを良い事に、あんなガタイがでかいだけの青二才に、色々、いろっいろっ、体中いいようにされた上に、そいつにとっておきのネクタイとシャ ツをくれてやるなんて、俺はなんて太っ腹なんだっ・・・。
 特に、あのネクタイは、ほんっとーに、高かったんだぞっ。
 『とっておき』 だったんだっ。あれはっ!
 今まで、どんな女にだって、ここまで奉仕したことはなかったのにっ!
 この俺が、なんで、ここまでっ。
 なんでだっ!

 先程までなんとかプライドで抑えつけていた怒りは、体が爆発しそうにぐつぐつと煮えたぎっていた。
 もし、体の自 由が利いていたならば、きっと、池山は怒りに任せて某特撮映画の怪獣のごとく大暴れしていたに違いなかった。
 


「よっ。立石。松江はどうだった?」
 キーを打つ手を止めて、岡本が声をかける。
「まあ、この分だとATM機の受注は確実に取れるだろう」
 大きな鞄を無造作に床に下ろして、立石は答えた。
「それより、S銀の会議はどうなった?」
「バッチリ。江口も、堂々としたもんだったぜ。かなり意地の悪い質問もあったのによ」
「そうか・・・。じゃあ、さっそく池山と打ち合せしないとな」
 立石が電話の受話器を取ると、
「あ、池山は年休だとよ」
 と、岡本が横から止めに入る。
「朝から来てないのか?」
「ああ。二日酔いじゃねーの?」
「あの池山が、二日酔いで年休ねぇ・・・」
 かちゃり、と受話器を下ろす。
「女と酒の次に好きな仕事を休むとはな・・・」
「さすがの池山も、今回は疲れがたまってたんだろう?なんてったって、顧客にも、身内にも、めーいっぱい頭下げまくってたしなぁ」
 そう言って、岡本はけらけら笑う。
「昨日だって、立石がいねえから、つぶれたヤツを江口が送っていったんだぜ?」
 立石は、バインダの中の書類を探す手をぴたりと止める。
「江口が・・・?あいつの寮へ帰るには、池山の家は遠回りだろう?」
「そりゃ、そーなんだけどさ。俺も手ぇいっぱいだったから、あいつに任せたんだわ」
 徹クンがいなかったから、もお、アタシ、さみしかったわぁ~。
 岡本が両手を胸に当ててしなを作り、にっと笑う。
「あー。そーか。そりゃ、大変だったな」
 にこ、と立石は笑い返し、バインダをめくる。
 丸一日休みを取る?
 あの、元気だけがとりえの、池山が?
「なにやってんだか。あの馬鹿は・・・」
 ちらりと時計を見た後、誰に言うともなく呟いた。



 かち、こち、かち、こち。

 時計の針は、ゆっくりゆっくり規則正しくかつ丁寧に時計盤の上を回る。

「だ・・・・・・・っ。たいくつぅ・・・」
 ベッドに腹ばいになったまま目覚まし時計を眺める。
 池山はいわゆる外型体質で、睡眠時間も短くて良いかわりに、何もしないで家の中でじっとしているのが大嫌いだった。
 もともと、二日酔い自体はしたことないし、風邪もめったにひかない。熱が出ても一晩眠れば必ず治るし、少々痛んだものを食べても食中毒になることもなかった。そのおかげで、入社して以来一度も健康保険証を使ったことがなく、健保組合から特典として毎年豪華商品(?)をもらっている。ちなみに、目の前の目覚まし時計はその戦利品(自社製品)であった。
 江口を追いだした後夕方近くまで泥のように眠ったおかげか、力を入れると涙が出てきそうな位だった全身の痛みは起き上がる気力はさすがにないもののちょっとした筋肉痛程度におさまり、明日は無事出勤できそうだった。
 ただ。
 彼はもう一つ問題を抱えていた。
 それは。
「腹減った・・・」
 きゅるきゅると切なげに訴えるお腹を抱えてぼやく。
 腹は減っているのだが、筋肉痛その他もろもろで指一本も動かすのがおっくうな今、ドアの向こうにある台所の冷蔵庫すら、地球の裏側にあるかのように遠かった。

 ちくしょう・・・。
 スポーツ新聞なんかに『某有名企業エリート社員、カマを掘られて餓死』って載った日には、ぜーったい、江口に取り憑いて、祟り殺してやる!
 あの、岩のようにがっしりしていて、ばかでかい体の生気を吸い尽くして、見る影もないくらいへろへろにしてやる~!

 人間、腹が減ると、愚にもつかないことしか考えないものである。
 池山が意味のない妄想に腹を立てて人生を悲観している最中、くだんの目覚まし時計の横にある電話が鳴った。
「はいっ。もしもしっ」
「・・・・元気そうだな」
 一拍分間を置いて、深みのあるバリトンの声が聞こえてきた。
「あっ、立石?・・・ぜんっぜん元気じゃねーよ。この俺がこの時間ベッドで電話取ってんだからなっ」
「そうか、そうだよな。・・・で、腹の具合が悪いのか?」
「いいや、ちがうっ。めちゃくちゃ腹が減ってる。もお、飢え死にしそう。なあ、なあ、立石ぃ・・・」
 池山は枕をぎゅうぎゅう抱き締めながら電話の向こうに媚を売る。
「・・・わかった。十分後にそっちにいくから、鍵開けて待ってろ」
「うんっ」
 面倒見の良い友人をもつのは良いものだ。
 神さま、俺に立石徹くんを与えてくれて、ありがとう。
 ベッドからいそいそ起き上がる、ゲンキンな池山であった。




「うーん。しあわせー」
 立石が速攻技で作ってくれた丸天そばを、この上なくおいしそうに池山はすする。
「なー、蕎麦は松江で買ってきたってわかるけど、この薩摩揚げはどーしたわけ?」
 そばに添えてある具は、いわゆる丸天とはちょっと形と中身が違った。
 分厚い揚げの中に人参や牛蒡が入っていたり、ころりと球の形をしたのにはタコが入っていたりする。
 台所のすみには、『出雲そば』と『薩摩揚げ』の空箱が重ねて置いてあった。
「設計部で鹿児島に借り出されていた奴が、買ってきた」
 ほうれん草のおひたしを静かに咀嚼しながら、立石は答える。
「さすが、仏の立石。みんな供物を忘れんわけな」
 右手の箸はそのままに、左手を上げて拝んだ。
「いや、そう言う意味じゃないだろう」
「そーいう意味だって。だって、鹿児島ってお前の管轄外だろうが」
 立石は、よく全国各地の土産物をもらって帰ってくる。
 それは、彼が自分の仕事も忙しいさなかに、他人の仕事も色々助けてやっている証拠である。
 いかに機械と情報が発達しているとはいえ、コンピュータ業界でのエンジニアの仕事は、突発事故を処理する時などほとんどが結局人による手作業である。機械は仕事の運用をスムーズにするが、トラブルの対処をなにもかも自分で行なうことは出来ない。しかも、顧客というものは、たいていこちらの手持ちのカード以上のことを要求してくるものだ。
 つまり、実際頼りになるのはマニュアルや機械ではなく、人の知恵と経験というわけである。
 そういう時に立石の持つ知識と友人層の厚さが、年の若いエンジニア仲間に頼りにされるゆえんであった。
「ま、おかげで俺は栄養があっておいしいものや珍しいものをしょっちゅうおすそわけに預かれるんだから、理由はどうでもいいけどさ」
 仕事が出来て人柄の良い男は、後々までお付き合いさせてもらったほうが自分のためというもの。
 もっとも、彼が設計部の男に出した助け舟は、きっと薩摩揚げの一箱や二箱では足りないに違いないが。
「ところでさあ。いつも思ってたんだけどこの出汁の味って、やっぱ、土地によって違うものなのな」
 池山はどんぶりを抱え込んで、ずずっと残り汁をすする。
「ああ。関東の味に比べてかなり薄いだろう。嫌いか?」
「ううん。逆。俺はこっちの方が好きだな。やっぱ、これっておふくろの味?」
「いいや。ほら、うちの母親は今でもほとんど包丁を握らないぐらい家事嫌いだろ?そばなんざ、出前以外で食ったことないなぁ」
「へ?あ、そーだったな。でも、なら、なんで立石はこんなに料理上手なんだろうねぇ」
 にやにやと笑いながら箸を置く。
 立石はそばを生からゆで上げている上に、出汁をきちんとかつおぶしや昆布を使って作っていた。そのこだわりと手際の良さは、昨日今日で身につくことではないのは一目瞭然だ。
「さては、お料理上手のおねーさまにでも、手取り足取り習ったな?」
 池山の瞳が期待でらんらんと輝く。
「ばあか。お前とは違うんだよ。育ち盛りに運動部なんかやっていたら、貧しいレトルト食品じゃ体がもたんだろう。そしたら、食いたいものは自分で勝手に作るしかないじゃないか」
「そういえば、お前の母ちゃんって、息子の合格祝いを宅配ピザ一枚で済ませるようなグレートな人だもんなぁ」
「ははは。あれは、さすがの俺も驚いた」
 立石の母親は少しエキセントリックな人物で家事と育児のほとんどに関わることはなかった。なので自分の食事は元より、弟妹達の面倒まで長男である彼が一手に引き受けていたのだ。
 しかし、そのおかげで今や若いみそらで『家事の達人』だ。
 ・・・なんて泣ける話なんだ。
「お前って・・・。意外と苦労人だよなぁ」
 ごちそうさまでした。と、立石に向かってしんみり手を合わせる。
「そうだな。ようやく家を出て会社勤めを始めたら、育ち盛りの池山が大きな口を開けて待っていたしなぁ」
 そう言って、にっこりと笑い返した。
「だーっ。てめーっ、その言い草はないだろう?俺は、病人なんだぞっ」
 自称病人は、二人前のそばと、色とりどりの薩摩揚げと、ほうれん草のおひたしを平らげてふんぞり返る。
「そうだったな」
 立石は笑いを堪えながら、茶を湯呑みに注いだ。
 こぽこぽという音にのって、香ばしい香りが池山の頬を緩める。
「おっ、これ、もしかしてほうじ茶じゃねーの?」
「そうだよ。お前、ほうじ茶が好きだもんな。保坂さんがお前にって、今日持ってきてくれたんだよ」
「げ。保坂ぁ?あいつ、またあることないことお前に吹き込んだりしたんじゃねーの?」
「まさか。彼女も心配していたよ。お前のこと」
「うわ、嘘だそれ。俺はそんなの信じねぇからなっ」
「そうか。そうか」
「あっ。立石、人の話は真面目に聞けと・・・」
 さらに言いつのろうとしたその時、インターホンが鳴った。
「あれ?」
 勢いをそがれた池山は、間の抜けた顔をした。
「誰か、他に来客予定があったのか?」
「いいや。どの女にも、ここ二週間、連絡取ってないし・・・」
「おやおや。そりゃまた・・・」
 そう言う間に、もう一度インターホンが鳴る。
「新聞の集金かな・・・」
 かったるいなあと池山が呟く。
「じゃあ、俺が出よう」
 立石はのっそりと席を立った。



 二度目のインターホンを鳴らした後も、中は静まり返ったままだった。
「もしかして、あれから一度も目を覚ましてないのか・・・?」
 まさか、倒れたりしていないだろうな。
 最悪の事態を思い描き、心配ではやる心を押さえきれないまま、三度目を鳴らそうとしたその時、内鍵が静かに回り、ゆっくりとドアが開いた。
「おや。江口じゃないか」
 ひょっこりと、浅黒くて小さめの顔が、自分よりいくぶん高い位置からのぞく。
「・・・立石さん。どうしてここに?」
「まあ、同じマンションの住人だからな。ちょっと様子見がてら、一緒に飯を食っていたんだよ」
 部屋の奥から、かちゃかちゃと食器を重ねる音が聞こえてくる。
「じゃあ、池山さん、もう体の具合は大丈夫なんですね」
 ほっと江口が息をつくと、
「そうだと思うけど。まあ、上がれよ」
 立石は中へと促す。
 玄関に入ると立石はきびすを返し、まるで自分の家であるかのように慣れた足取りで奥へと向かう。
 江口は立石の後ろ姿をしばらくじっと見送った後、靴を脱いだ。



「立石、なんだった?」
 大事そうに両手に抱え上げた湯呑へゆっくり口をつける。
 おなかはまんぷく。
 ほうじ茶はうまい。
 池山は、この上なく幸せな気分だった。
「見舞い客だよ」
「へ?」
 顔を上げると、そこには、今朝自分が必死になって追い出したはずの男が立っていた。
「江口ぃっ?なんでお前が来るんだよっ」
 池山の頭の中は、真っ白になった。
「・・・池山さん」
「立石ッ、なんでこいつを入れたんだよっ」
「さて・・・な」
 立石は二人に背を向けて、黙々と食器を洗い始める。
「おいっ、そりゃないだろっ」
 ばさっ。
 テーブルの上に江口は紙包みを置く。
 池山は驚いて口をつぐんだ。
「・・・・ネクタイも、シャツも、俺はいりません。お返しします」
「・・・は?」
 ひきつり笑いをしながら池山は江口の顔を見つめる。
 彼の目は、完全にすわっていた。
 赤信号が池山の頭の隅でちかちかと点滅している。
 やめろ。
 何を言いたいか知らんが、いや、うすうす気がついているから、今、ここで言うのはやめてくれ~!
 心の中で池山は絶叫した。
 しかし。
 江口は深呼吸を一つして、言葉を続けた。
「だから、昨夜のことは、俺、絶対、忘れません」
 ぼと。
 池山は、両手にしっかりと握りしめていた湯呑を落とした。
 ごろごろごろごろ。
 テーブルの上を有田焼の湯呑はゆっくりと転がっていった。
「俺、池山さんのことが好きです!」
「わあぁーーーーーーーっ!」
 OH MY GOD!



  『恋の呪文-2-』へ続く。


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